たいして覚えていない

 1990年頃、茅ケ崎市文化会館で、椎名誠氏の講演会を聴いた。覚えているのは、氏がどこか海外のジャングルだったかな、自然の中に旅行をしてから帰国すると、人間が作った都市や住宅は、ジャングルの自然では遭遇しない、直線や円弧や円で構成されているということにあらためて気が付くものだ、という話だった。もっといろんな話があったんだろ思うけれど、これしか覚えていない。私は自然の中に暮らすことなんか出来ないな。現代人(その一人が私)は、生存の術を忘れてしまって、ライフラインが整っているのは当然のように、安心な都市生活をしているわけで、私なんかさらにその最たるものだろう。都市の影は、都市が直線だから、こんなありふれた街角でも直線がフレームという区切られた長方形の中をまた区切る。今日もほとんど写真を撮らなかったから、また一年前の写真をHDDにアクセスし覗いてみた。昨年の10月上旬にはKYOTOGRAPHIEに合わせて二泊?三泊?で京都に行っていた。この駐車場の光景を一年前の私はとても気になったようで、露出を変えながら5枚くらい撮ってあった。モノクロにして、少しノイズを加え、コントラストもちょっとだけ上げたのは今日のことです。

 上に書いた講演の話なんかは、このブログの過去のどこかにやっぱり書いていると思う。一体全体、何十年も生きてきて、こういうエピソード記憶を一体いくつくらい覚えているものなんだろうか?意外にも少なくて、がっかりする数しかないんじゃないかな。

 このブログは、いつのまにか忘れかけていることを補強修正するための記憶検索の役割をまとっていて、なにかワードを入れて記事検索にかけると、あぁ××の美術展に行ったのは〇〇年の▽月で、帰りになになにを食べたのか・・・なんとなく思い出せるな・・・というようにも使える。それだけ長く書き続けているってことでもある。だけど、こういう風に機能するのは「忘れかけている」ことであり「完全には忘れていない」ことだけだ。忘れてしまっていたら検索ワードすら浮かばない。

 例えばここ5年のことはまだまだたくさん覚えているものの、忘れてしまったことは忘れかけではないから、もう忘れ続けるしかないのか。忘れ続ける方に行ってしまう記憶が増えて行くのか。やれやれ、と思ったりする。忘れてしまわないようになんらかの痕跡を残すこともいいかもしれない(広くは誰にも読ませない日記(そんなものは書いてないですが)や、旅のお土産や写真が安直だけど結構重要な痕跡なのかもしれない)。忘れるにせよ、新たにエピソードが増えていればそれもいいかもしれない。昔も今も「思い出作り」という単語は大嫌いで、思い出を作りに行くことに意識的でいるのではなく、今を楽しめよ、と思ってきた。でももはやよくわかりませんね。少なくとも、新しいエピソードを積み重ねたいです。それが生きるってことそのものじゃないか。