忘れるから楽しめる

 今年の2月末・・・というと、7ケ月くらい前かな、初春、横浜の臨港パークをフイルムカメラをぶら下げて歩いていたときに撮った写真です。階段の先、中心にシルエットになって写った男性が歩いて行くのを見つけて、早く撮ろう!と思ったのをなんとなく覚えている。だからきれいなシンメトリーになっていないですね。このあと、本格的に春が来て、猛暑になった夏が過ぎ、10月になって平年並みの穏やかさがやってきた。その間に落葉樹は新緑から、生命感に溢れた濃い緑になりいまは少し色あせているだろう。芝生も夏のあいだは、もしかするといまも、緑なのかもしれない。もう何十回も四季を過ごしてきて、だけどここに書いたような変化があっただろうことは知識として文には書けるけれど、でも現実にこの場所にあった例えば7月21日、8月16日、9月15日、10月4日の風景をこんな知識だけでは詳細には再現できない。それどころか、上に書いたせいぜい数行のことしか、その変化を書けないから、7/21と8/16と9/15の違いなんかなにひとつ思い浮かばない。ときどきこういう不甲斐なさというのか、人の今への依存、過去や未来を見通す力の稚拙さのようなことを思います。だけど、だからこそ、巡る季節のなかで、一日一日を新鮮に感じて、感動することが出来るのでしょうね。

 もしすごい記憶力の人がいるとして、その人が、秋になったなぁ、きれいだなぁあそこの木・・・と感じ入っている私に、あのねこの景色なんか君はたとえば去年の×月×日が一番それに近いんだけどさもうそっくりの景色を見ているんだよ、と教えてくれるとする。私はどう答えるだろう?

「すいませんね、あなたほどの記憶力がないもんで、すぐに忘れちゃって。だけど忘れるからこそ、この長い日々と繰り返す季節を、楽しめるんですよ。忘れっぽいのは悪くない」

そう言うだろうか?