ランタンのようなビル

 銀座のエルメスのビルは写真のようにガラスのキューブが煉瓦のように積まれた外観で、夜になると店内の光が内部で発光して、ビル全体がランタンのように見える、と聞いたことがあるので、いちどそうなっているビルを見てみたいのだが、なかなかそういう時刻にここに行くことがない。エルメスのビルの上階には、エルメスの商品とは無縁の人でも、無料で上がることができるギャラリーがある。ギャラリーからブロック越しに外を見下ろすと、ガラスブロックで歪んだ町の中を歪んだ車が走り停まり、歪んだ歩行者が停まり歩くのが見える。

 先日、写真家の渡辺さとるさんのYOUTUBEチャンネルの過去のライブラリーの中から適当に選んで、何本かの動画を見た。そのなかで・・・さとるさんの本に関して、誰かと対談していたのかな?・・・「絵画は写真の登場と写真の急激な発展に伴って、まるでその逆を行くように精細さを失う方向へ向かって行った、これはどういうことなんだろう?でも興味深い」というようなことを話していた。わたしの知り合いは、写真のなかでも精細さを放棄したようなアレブレやデフォーカス表現、オールドレンズによる低画質化と迷光(ゴーストやフレア)の写った写真、総じて今のカメラが能力として持っている高精細を極めようとするその志向を裏切って作られた写真について「高精細を放棄した部分に想像や記憶がうまくはまれば別の写真価値が生まれる」と言っていたが、それが絵画が写真に後押しされて、あるいは写真なんて歯牙にもかけないまま、向かった方向(最後は1ピクセルの単色が塗りこめられた抽象画になる)と似ているのだとすると、絵画を主語にして言えば、鑑賞者の自由な解釈が可能となる(それを余白と呼ぶと)、余白を持つことの重要性が選ばれつつ今に至ったのかもしれない。もしかすると、そういう役割分担を写真と絵画が分けて持ったのか・・・。それからそういう歴史を経てきたとしても、その最先端がいちばん人の心にとって刺さるというわけでもなく、もっともポピュラーに受け入れられるのは、遅れて付いてくるか、どこかにとどまっているか、そういうものだろう。

 エルメスのギャラリーでガラスキューブの向こうに見えるぼんやりとしたあやふやな、それでも車や人が動いていることがわかる街の風景は、高精細を放棄した絵画のようで、いろいろと見えないところに物語を想像できる。そう思うと、ギャラリーに展示されたそのときに開催中の美術展とは別に、ギャラリーのガラスキューブから外を見る、という行為そのものが「鑑賞」になるともいえる・・・のかな?なんか屁理屈っぽいですね(笑)

 写真には風が吹いているのが写っていて、気に入っています。