落ちていたハンカチから

 ハンカチが落ちていた。少し前、早春の頃の六本木で、ビルとビルのあいだの人だけが通ることが出来る細い路地に落ちていた。二人の裸の人、たぶん男の子、が植物に囲まれているようだ。なにかの神話に題を取ったのかもしれない。

 路地を抜けて、すぐ目の前のビルには小さな洒落たギャラリーがいくつか入っている。全部で四つか五つの展示を見て回る。帰りに同じ路地を歩くと、ハンカチは同じ場所に落ちたままだったし、誰にも踏まれておらず、風に煽られて上を向いている絵が捲れることもなく。それで、ここを通った人たちが、ハンカチを踏まないように避けて歩いたことがわかる。白いハンカチはきれいなまま落ちているというより置かれているようだった。

 ギャラリーへ行くときにハンカチの写真を撮った(上の写真)。ギャラリーから帰るときにもハンカチの写真を撮った。立ったまま足元のアスファルトに落ちているハンカチを撮った。ふたつき経った今日になって、この行きと帰りに撮った二枚の写真をPCで見る。カメラの傾きに僅かな差があったのか、行きに撮った写真は写真を表示するアプリケーションが横画面で表示される。帰りに撮った写真は縦画面で表示される。もういちど、ハンカチの写真を拡大して見たら、帰り道の写真に写っているハンカチには、小さなゴミ・・・いや、ゴミなどという単語で片付けたくはないのだが、それがなんだかわからない小さなものが一つハンカチの上に付いているのがわかった。茶色い1mm角くらいの小さなものは、植物の枝や萼、あるいは枯葉の一部かもしれない。

 この日、私がギャラリーにいた時間を60分とすると、もう数時間のうちに、ハンカチにはもういくつかのゴミが付き、暗くなると目立たなくなるから、ほどなく誰かに踏まれ、そのうち回収され廃棄された確率が高いと思う。そんなことをちょっとだけ思った。

 五月になりもうすぐ六月になる。この写真を撮った早春の頃より日が長くなった。日が長い季節はいい。日が長い季節に西の方に旅行すると、すごく遅い時刻まで明るいので驚く。島根県に旅行に行き、宍道湖のほとりで夕日を見ていた六月の日があった。20年くらい前のことだ。あの頃はワイヤーでつながったイヤホンをCDウォークマンだったか、最初のiPODかもしれない、そういう音楽再生専用機につなぐことで屋外で音楽を聴いていた。夕日を見ながらコルトレーンのマイ・フェイバリッド・シングスを聴いていた。あの日が私がしっているいちばん昼が長い日だったかもしれない。

 さて、私はハンカチを落として失くしてしまったことがあっただろうか?落とし物をしたことはあんまりないと思う。ただ、なぜか帽子はよくなくす。風で飛ばされてなくしてしまうわけではなく、被っていた帽子をどこかでとったとき・・・喫茶店に入る、日陰の公園のベンチに座る、など・・・そこに忘れてきてしまうようだ。だけど最近はあまり帽子を被らなくなったから、もう失くすこともないかもしれない。それはでも、帽子は失くさないにせよ、帽子を被るような気分の日々というのか、そういう気持ちになる日々を失くしたのかもしれない。