SF小説に描かれたこと

    1987年に日本SF大賞を受賞している荒俣博士著「帝都物語」、史実にある程度根差して描かれた戦前から、1980年代時点の現在、更に未来として描かれる00年代以降?と、東京の表には見えない地脈等を巡って様々な攻防が起きる長大な物語で描かれていた未来が、今となっては現在になり、小説に電動バイクで街を駆け抜けて行く暴走族が描かれていたな、と、この写真の乗り物(なんていう乗り物?電動ボード?)や、今どきのかっこいい電動自転車を見ていて思い出しました。写真を見るとナンバープレートが付いているから、これは原付になるのですかね?

 何年か前に古いSF小説に描かれていたその時点では夢物語の未実現のあれこれが、今現在どれだけ実現したか、という一覧表をどこかのサイトで見ましたが、けっこう実現してるのに驚いた。そんなもん夢物語で出来るわけない、と思ったものが、意外と夢じゃない。「夢だけど、夢じゃなかった!」なのです、大抵は。荒俣さんの小説に描かれていた電動バイクも暴走する危険な乗り物か、のんびり進むものかは別としても、ほら、今や実現してる。

 自動車が完全自動運転化され乗ってる人は遊んでいても寝ていてもいい移動ホテルのようになり、空中ドローンが三次元空間を互いに位置を把握しながらぶつからずに飛翔する渋滞レスの高速個人移動が使われる、なんてことはだからそのうちそうなるのでしょう。

 ある人の判断や行動のパターンを個性として把握学習し、外乱を加味して、課題に対するアウトプットを、A.I.が学び頭脳となり、肉体のほろびた器官から人工品に置きかえて明確な死を回避していくと、いつ死んだかわからない個性が、製造品に、すなわちロボットに、生体から徐々に移行する「不明瞭な緩慢な死ののちに」その個性が維持されるようになるとしたら、死なのか永遠の生なのか?

 今の価値観で未来を憂いても、あるいは、夢見ても、そのときに価値がどうなるかはわかりませんね。不安かもしれないがいつの時代もそうだった。不安がらずに夢見たいものです。