出猩々(秋ではなく今日の写真です)

 出猩々というモミジは新芽が真っ赤、その大木を大きな55mmF1.2のオールドレンズを付けたカメラで真上を向いて撮っていたら、すっかり腕と首が凝り固まってしまいました。モミジの名になっている猩々をネットで調べると「猩々は中国の古典書物で、人語をあやつる、または解する獣とされ、酒を好むという記述も古い。海棲と言うのは日本独自の設定」あるいは「能の演目である五番目物の曲名「猩々」が有名であるが、中国の海棲の精霊と言う設定の猩々が、真っ赤な能装束で着飾り、酒に浮かれながら舞い謡う」(ウィキペディア)とありました。

 昨日の土曜日3/30と、今日の日曜日3/31と二日続けて季節外れの暑さ。特に今日は3月にして真夏日になったようです。東京は3/30に桜の開花宣言、今日3/31に歩いていてソメイヨシノの木を見るとほんの一輪だけ開花している花を見付けました。昨日は咲いてなかったので、開花がいよいよ始まった日曜日という感じでしょう。桜が咲いても、それでうきうきと、あちこち飛び回っては、写真を撮るのは・・・若い頃はそんなことをよくしていて、桜が開花している短い期間には休暇も使って、あちこち有名な桜見物に行ったりもしたのですが・・・そういう積極的な行動は、なんだかダサい気がしてしたくないな。と、今は思っているが、結局は右往左往しちゃうんだろうか。自分の日常の中にある名もなき桜に、あるいは桜を主目的にはせず、それでもたまたま出会った桜に、春を見ればそれでいい……が、出来るとかっこよいよなぁ、という気分です。

 いや、本当は右往左往して?、あれやこれや五感で感じて、そこから色々と思ったり感じるほうが健康なんだろうな。出来事を誰かにすらすらと沢山話せて、そうやって日々に起きた事と対峙して生きて行くことが「時間が早く流れると感じてしまうことへの防止策」だと、このまえテレビでそんな話をしているのを観ましたが、これを言い変えると「日々を淡々と生きようとし、予想外が起きないよう、既存の価値感のまま、自分の立ち位置が脅かされないよう、なるべく繰り返し暮らし、新しい情報も自分の既存の判断基準でしか考えないようにして、深入りしない」という安全側の暮らしぶりをしていると「時間が早く流れて行く」と感じるということですね。旅に出たり、なにかを新たに始めたり、そういうことをし続けることが大事だってことだな。いや、日常のひとつひとつのことでも、流さずにしっかりと受け止めるのがそれ以前にやるべきことなのかな。