そこへ行くまでの道やら街やら

 一昨日の早朝、もうすぐ雨が上がるはず、環状八号線道路を自家用車で走っているときにラジオから韓国の書店事情というレポートが流れ、日本でいうところの個性派書店というのか独立系というのか、書店主の個性が品ぞろえに反映したり、店のコンセプトが合ってそれに沿った本ばかりが売られていたり、そういう書店は日本でもここ数年ずいぶん増えているように感じるが、韓国では行政の後押しだか条例だかが書店経営がうまく行くように制度設計が整ってきているのだと言っていた。

 1990年代おわりもしくは2000年代前半までは、会社の帰りに最寄り駅の近く、駅前交番の隣にある書店に入ると、それは帰り道だったから夜の八時過ぎが多かったが、客は少なくとも十人かもう少しいて、立ち読みする立つ場所がなかったり、文庫本の通路を先へ行くときに姿勢を横にして身体を「薄く」して「すいませんすいません」と言うか、言わずとも心の中で呟いたりしていた。それからPCの普及と、なによりもスマホが暮らしの基本になってから、会社帰りの書店の客は、ときには三人くらいしかいない。こりゃぁ、いつかこの店も閉店しちゃうんじゃないか?駅ビルの中にある書店こそ人はそこそこいるけれど、この交番の隣の書店はやばそうだ、と思っていた。駅ビルの五階にあるK書店と、交番の隣のH書店は、ともにありふれた新刊本書店なのだけれど、だから今月の新刊文庫や最新の雑誌は、どっちに行ってもあるだろう、と思うものだが、意外とどっちかにしかない、片方は売り切れだったり、片方は平積みですぐ見つかるけれど、もう片方は平積みされておらず探しても見つからなかった、なんてこともある。意外と客が少ない交番の隣のH書店の方に欲しい本がある、もしくは残っている、ことが多い感じがする。最近買った写真特集のSWITCHも、数か月前に買った京都特集合本のポパイも、KにはなくてHにはあった。

 話が脱線しました・・・そういうふうにH書店の客が激減してしまい数年経って、ついふた月くらい前、こんなのはただの肌感覚というやつで数字測定された定量評価ではないから間違っている可能性もあるが、少しだけ客足戻ってますか?と感じたのです。十人以上店内に客がいた時代から三人になり、それが四人か五人まで戻っている感じがしました。コロナの影響もあったのかもしれないですね。わたし自身に照らし合わせると、2020年頃はkindleで読書することが多かった。書店に行くには外出になり、それは本当に不要不急なのか?しかも誰かの手が触れた本を触りたくない、ということが大きかったんだろうな。だけどここ二年くらいkindleでの読書はまったくしていないですね。目は疲れるし、やっぱり物語の伏線・・・どころか登場人物の名前がよくわからなくなったりもして、ページを戻って確認するようなとき、スライダーをなぞったりタップしたりで操作するより、紙のページを捲って行く方がストレスがない。ストレスがないのはそこに行き着くまでのあいだにある読んできた文章が走馬灯のようによぎって行く、その感じとかが、微妙な話だけど読書に寄り添った視覚刺激なのではないか?

 韓国は日本よりずっと、あるいは世界中でも突出してはやく、ネット社会になっていったと聞いたことがあります。そういう国で書店が人気になっているって、いくら行政の後押しがあったとしても、その後押しはそこにニーズや流行があるからだろう、と思うわけです。

 紙の本でもLPレコードでもCDでも、書店やレコード屋やCDショップへ足を運ぶ。映画だって、映画館に足を運ぶ。その、これから手に入れるものを頭に浮かべてわくわくするときに、そこには道があり人がいて街がある。手に入れて帰路にも、そこにはさっきより時間が進んだ時刻の道があり行き交う人がやっぱりいて街がある。さすがに外食とか飲み会とかライブやスポーツ観戦は、それだってデリバリーとかズーム飲み会だとか、あるいはネット配信もあるけれど、ライブ感が違うことは皆わかっていて、リアルにはリアルの良さがある。そのリアルには、同じようにそこへ、レストランや居酒屋やスタジアムに行く道と行き交う人と街がある。

 もちろん手に入れるCDやレコードや本、食べるもの、観戦するゲーム、ライブの音楽、という主目的があるわけだけれど、その行き帰りのこれら、すなわち繰り返すけど道と人々と街、あるいは街に切り取られて見える空でもいい、それがあることが実は心の豊かさにつながるんじゃないかなとふと思いました。行きつけの書店までの旅、というわけです。その「までの旅」の部分が書店の魅力でもあるような。

 書店が復活方向に向かうのはいいことだ。そして韓国に限らず、日本だって、そういう書店が増えているし、個性派書店でなくても書店にすこし人がもどっているんじゃないだろうか?