6月の海辺

 昼間の海風はだいぶ弱まったがまだゆるやかに吹いてくる。夏至に近く夕方はいつまでも明るい。波と風の音がする。ときどき向こうの砂浜の若い人たちから笑い声があがり、話す声もさわさわと耳に届くが、その言葉の意味まではわからない。

 サイモンとガーファンクルサウンド・オブ・サイレンスの歌詞、ポール・サイモンが作詞したその意味は、聴覚が捉えている音というより、心の状態の比喩なのかもしれません。だけど、私がたぶん二十歳の頃だったかな、たしか正月の誰もいない鎌倉の街を見下ろせる尾根の上にいて、なんでそこに行ったのかは覚えていないのですが、想像できるのはせいぜい気まぐれでハイキングコースを上がってみたのかなというぐらいで、そこは無風で音がなにもなかった、そういうときにでは耳は本当に「無音」なのかというと、これはもしかすると一人一人の耳の出来具合によって違うかもしれませんが、ホワイトノイズというのか、なんとなくワーンと言う街の音というべきだったのか、そういう小さな音が、もしかすると外界の音ではない自分の鼓膜のもたらす音が、聞こえたようだった。あのときこれがサウンド・オブ・サイレンスだなと思ったものでした。

 この6月の夕方の海辺は、そんな状況ではなくて、ちゃんと音がいろいろと聴こえています。上に書いたように。だから上記のホワイトノイズのような無音のなかで聴こえたように思った音の記憶をここに持ち出すのはちょっと違うというか、関連性はないかもしれない。

 この海辺で聴こえていた音は私に向けての音ではない、私が聞こうと選択した音ではない。私は耳を傾けて、そこにある音に意識的になったり無意識に遠ざけたりしている。その自発的に選択して聴いていない聴こえてくるだけの街や自然の音の中にいて、風に吹かれていて、暮れて行く時間のなかの明るさの変化が見えていて、こういう状態にいることが好きです。非常に自分勝手で安全側にいて楽しめる一人ぼっちの状態のよう。

 あの十代の頃に無音の中で聴こえたホワイトノイズのような音よりもざわざわしているここにいることが心地よいな、だから、より寂しかったあのときのことを思い出したりしたのだろうか。