初夏のような

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部屋の整理で進めたいことは、スライドになっている古い写真をデジカメでちゃちゃっと撮って捨ててしまうこと。ずっともう聴いていないうちに再生する装置の方が故障してしまい持っていてもどうしようもなくなっているカセットテープ。1970年代にFMをエアチェックした渡辺貞夫マイ・ディア・ライフのテープはちょっと惜しいが捨てるしかないかな。毎週のように来日中のゲスト・ミュージシャンとのセッションが放送されていた。リフォームのときに玄関と廊下に作ったピクチャーレールをまだ使っていないのでこれを使うこともやってみようか。そうすれば部屋に置いてある、これは1990年代に、デビッド・ホックニーのフォトコラージュ作品を真似て作った大きなコラージュ作品を掛ける⇒部屋が片付く、ことになる。でも、この土曜日曜はそのどれも進みませんでした。どこの古書店で買ったのかなにも覚えてないのだけれど、ずっと積ん読タワーにあった村田喜代子著「故郷のわが家」を先日読了。帯にある「未曾有の孤独」ってよりも、もっと乾いてのんびりとした時間の流れに身を任せる感じだった。

 

故郷のわが家

故郷のわが家

 

 

 

トマトのハウス

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ウォーキングをするコースは(いま急遽名前を付けると)「川沿い・一号・駅あたり」「中学・畑・コーヒー豆屋」「海まで往復」などの定番コースがある。写真はもちろん「中学・畑・コーヒー豆屋」コースで撮ったビニールハウス。なお、コーヒー豆屋とは瓦屋根の平屋の日本家屋の建物でむかしからコーヒー豆の焙煎をしている店が、畑やビニールハウスが点在する真ん中を南北に走る県道沿いにあって、ぽかんとした明るい風景を作るのに一役かっている。いちどあの店でコーヒー豆を買ってみたいと思う。だけど「中学・畑・コーヒー豆」コースを歩いていても、たいていは「中学・畑」まででUターンしてしまう。しかも散歩の時間、早朝や夕方には店が閉まっていることが多いから、なかなか買えない。コースの途中には無人の野菜販売コーナーが畑の中や道沿いや(農家の方の?)家の門のあたりに何か所かある。男爵芋ときたあかりの二種類のジャガイモを売っている。スナップエンドウ、小松菜、ほうれん草、新玉ねぎ、をよく見る。ポッドに植えられたままのまだ小さなパクチーを売っているのも見かけた。そういうのを立ち止まって見て、たいていはなにも買わない。雲雀の声は美しい。雲雀の飛ぶ姿はいつも下手くそに見える。必死に翼をぱたぱたしては、なんとか落下を抑えているという感じ。最近、東北自動車道を走る機会が多いが、佐野SAや羽生PAのトイレの入り口のあたりの庇には燕の巣がたくさん作られている。燕は雲雀と違ってすいーっと滑空する。一週間前には大きな口をあけて一つの巣に三羽くらいのひな鳥が、親鳥が戻るときゃあきゃあ鳴いて餌をねだっていた。一週間たつと、もうほとんどの巣がもぬけの殻になっている。桜の花が咲いて散って葉桜になることだけではなく、様々な変化が次々に自然に起きているのが例年よりよく見える。ニセアカシアの白い花が綺麗に咲き誇っていたのは三週間くらい前だったろうか、いまはもう花はない。そしてもうすぐ紫陽花が色を付けますね。新型コロナウイルス感染症の蔓延で自粛をしていると、その間にどんどん進む季節が惜しくて、そんな風に自然に注意が向くのかもしれない。キショウブはけっこう開花期が長いのだろうか。生まれたての銀杏の葉を写真に撮っていたのは4月の下旬だっけ、ひと月経つともうすっかり若者のような葉っぱになった。イチヂクの木にも若葉がきれいだった、散歩コースに何か所かある。イチヂクの新しい葉っぱはイチヂクの匂いが強い。2歳から中学3年生まで住んでいた木造平屋長屋の庭にイチヂクの木があったので匂いが懐かしかった。来週にもこのビニールハウスの中に見えるトマトは赤くなるのかもしれない。いや、そうなる前に収穫されるのかな?

客船 90年代

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相変わらず、むかし撮った写真のスライドを接写しては廃棄しています。すごい量。ずいぶん時間を割いて接写をしているつもりだが、なかなか減らないですね。90年頃の夏に、横浜の近代建築をライトアップするイベントがあり、三脚を持って、県庁とか税関とか博物館等々の近代建築を撮って回った。ちょうどその日に大型客船、これ、クイーンエリザベスでしょうかね?大型客船が大さん橋に停泊していたのに行き当たったらしく数枚だけこんな写真がありました。普通ならば船の全容、一番先端から後端までを収めようとするのではないか?なんでこの船体の真ん中あたりだけを切り出すように撮ったのか。この写真を撮ったことすら覚えていないから、なんでこう撮ったのかもまるで推測できないのだった。

雑誌SWITCHがロバート・フランク追悼特集号だと知ったので早速に購入しました。これからぱらぱら捲ります。

在宅勤務。いちにちが過ぎるのが早い月曜日だった。

 

早朝の茅ヶ崎海岸

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喫茶「それから」とライブ喫茶/バー「マリー」が一階に入っていたビルは建て替える予定があるのか、その両方ともほぼ同時期に閉店(移転)してしまった。立ち退いたあとの窓の向こうに残っていたバーボン「ジャック・ダニエル」の宣伝兼ねたボードに午前の日差しが射している。窓に貼られたシールはなんだったのだろう。白く残ったシールの跡は綿雲のようだ。閉店してしまった店舗の閉店の理由には、いろんな難しかったり悲しい物語があるのだろう。でも、それを知らぬ存ぜぬの散歩者は、のほほんと、その残された痕跡に、こうしてカメラを向けた。近くの電信柱のてっぺんでカラスが鳴いている。カラスは鴉ではなく烏でもなく、カタカナな感じだ。

例年の五月の日曜日、よく晴れていれば、海岸は大勢の人で賑わっているから、それに比べるとずいぶん人の出は少ない。海風吹いているし、紫外線の下だし、皆マスクをしている。人は、目の前にいるでも、モニターの向こうにいるでもいいけれど、とにかく誰かと会話をして繋がっていたいのはこれはもう生存の条件なんだろう。そういえば先日オキシトシン(幸せホルモン)についてのテレビ番組を見たけれど、声を聞くだけでもそれは分泌されるそうです。なのでズーム会議でもズーム飲み会でも、大事なことらしい。一人暮らしの学生さんや自宅待機している社会人のみなさまが、いつも誰かと繋がっていられるように。でね、浜昼顔の花言葉は「絆」だそうです。

帰宅してからアマゾン・ビデオで「365日のシンプル・ライフ」というフィンランドの映画を観ました。ステイ・ホームで断捨離をしている人が多いらしく、衣類ごみの引き取り業者が、多すぎて処分に困っているなんていうニュースもありました。この映画を観ていると、ほんと、部屋に物がありすぎの私としては断捨離を進めたいな、と思う。

つれづれにどうでもいいことをだらだらと書いています。最近よく聴いているCDは

The Thornsのデビュー盤。気持ちが良いロック。

 

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Thorns

Thorns

  • アーティスト:Thorns
  • 発売日: 2003/05/20
  • メディア: CD
 

 

 

20年前の八島湿原

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相変わらず、古いスライド写真を接写しては廃棄しています。

1990年に買い替えたばかりの自家用車レガシィー・ツーリングワゴンを運転して、茅ヶ崎の自宅を深夜の12:00頃だったろうか出発して車山高原にある八島湿原に風景写真を撮りに行ったことがあった。会社の写真好きの仲間と八島の駐車場で合流して、だからといって一緒にそのあとBBQをするとかそんなこともなく、写真を撮り終えると、解散したと思う。いまは圏央道を北へ上がって、八王子ジャンクションから中央高速に入ればよいが、当時は圏央道はなかった。たぶんだけど、東名高速に厚木から入り、御殿場で降りて富士山を越えて、甲府のあたりから中央に入ったのではないか?深夜の高速に大型トラックがたくさん走っていて、深夜の高速に乗ることなどなかったから結構緊張したことは今も覚えている。

何十年も前に撮られたスナップ写真や古い街角写真には、撮られたときと写真を見る今との間に流れた時間によって、見え方が変わっていて、現代の見方がいろいろな感情を呼ぶので、効能が変化しながら写真はそこにある。でも風景写真と言うのは一体なんなんでしょうね?機器の進化による画質の差があることをさて置いてしまうと、もしかしたらこれと同じような霧の朝が、7月の八島湿原では同じようにやってくることもあるかもしれない。同じような、と書くのは曲者で、同じでは決してないんだけど。なにを些細とするかの視点の高さを上げてしまえば、「こういう霧の朝は毎年何日かあるんですよ、必ず」なのかもしれない。そう思うと風景写真と言うのは、(そこにレンズ効果によるディフォルメや圧縮効果を取り入れれば、撮影者の意図が浮き出るのかもしれないけどそれはそれでダサい気もするし・・・)所詮は現場でその風景を目の前にして五感で感応している状態に対して、勝れることはないのではないか?所詮は視覚だけの代行として、他の感覚は手足をもがれながらも、刻刻と変化する一瞬のそれを「不完全にも」留めているだけに過ぎないのではないか?それでもそれが価値を持つのは、その風景がダイヤモンド富士のように常時ではないから記録したことに価値があるのかもしれない。となるとそういう常時ではない、イコール決定的瞬間(定常ではない瞬間)を追い求めることに陥る。すると今度はその右往左往する人間の勝手な価値観に操られているような行動が、カッコ悪い気もしてしまう。ずらりとカメラが並んでみなが同じような写真を撮るのであれば、ほかの誰かにお任せしたい。

いや、この写真を撮りに行った30年前にはそんなこと考えたこともなかったです。みんなが綺麗!と言う美しい風景写真を撮りたかっただけでした。

だから風景写真とは、従来からそこにあるのに誰もそこに目を向けなかった「そこ」を見つけることか、あるいは誰も行っていないどこかに隠れている見つかっていなかった決定的瞬間(決定的場所)の第一発見者になること、そのどちらかが求められるのだろう。

とかなんとか書くけれど、綺麗はなにごとにも勝り、綺麗はいい。だからそれでいい。誰かと同じ写真であろうが、そこへ行き、五感で感じて、綺麗だから、そう「だから」写真に残したいと思って写真を撮った。少しの知識と少しの工夫でちょっとだけ自己満足できる「いい」写真が撮れる。それこそが綺麗な風景を前にしたもっとも大事なことではないか!

 

夜に一回り

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 午後10時、スマートウォッチで本日の歩数を見たらいつもよりだいぶ少ないので、なんでしょうね、なんでも数値化して「見える化」されるとそこそこ行動に影響を生むわけで、いいのか悪いのかよくわからないけれど、とにかくもう少し歩数を上げようなどということを発意の理由として、実際は夜の住宅地を歩いて写真を撮るのもなんだか昼間より「異世界」が見つけやすいこともあり、けっこう好きだから、歩くことに抵抗感が少ない。途中で雨が降って来て焦る。最近は街灯が明るいです。LEDライト化しているのかな、省エネでかつ明るいのではないか。街灯の技術革新については無知だから感覚で書いているだけですが。コロナ禍のもとだけれど、国道一号線には自家用車がそこそこ走っている。夜にあてもなく、どこにも寄らずに、一時間かそこら、例えば西湘バイパスを走って来るのもいいかもなぁなどと、滅多に思わないようなことを思いつく。

この階段には誰かが座っていて、この新緑は物の怪の化身であり、この住宅地だけ別の時間が流れている、とかね。別に夜に一回りをしてきてもなにも怖くないが、若いときにはきっともっと感応して怖いこともあったのではないか、と思う。小学校低学年のころ、留守番をして家に一人でいるときに、ふと、いまこの家は空を飛んで知らない場所に飛んで行ってしまっているのではないか?と言うような「妄想」に囚われ、そうなっていることを(そうなっているわけないのだが)知ってしまうのが怖くて、外を見ることが出来なかった。なんてことを今これを書いているときに思い出しました。

怖いと思いながら歩いているともっとすごい写真が写るのだろうか。もっと怖い気持ちが写るのだろうか。写るんだろうな~。感性が落ちるということは、夜も怖くない、ということに端的に現れるのかもしれない。

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早朝散歩

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本日は自宅でテレワークをする日、7:30に業務開始をすることにして、それまでに早朝散歩に出る。6:20から歩き始める。きれいな日光がさすきれいな朝でした。いつも歩いている、いつもそんな場所で写真を撮ろうとは思わない、そんな場所で写真を撮りたくなる。これはまだ上ったばかりの日光が作る影が風景を変えているに違いないと思う。と書きながら思うのは、そもそもその場所が撮る場所か撮らない場所か固定されているという「ところ」から考えているってことで、これがまず間違っている。撮っているときには風景にある程度感応して撮ることが出来ているのだろう。だけれども、家に帰り、こんな風に写真を選んだり、文章を添えるときになると、その現場で感応している身体がすっかり言葉や既存の選択眼にまとわりつかれるから、こんなヘタレな文章を書いてしまうのかもしれない。写真の選び方ってデジタルカメラ時代になり撮る写真が大量になって以降、それまでと別の次元の行為になっているのではないか。なにを選ぶかで撮った人がどういう人かを七変化出来てしまう気もする。一曲の音楽を作るときに作詞家と作曲家と編曲者と演奏者と歌手と・・・写真を撮る行為が作詞だとすると、写真を選ぶ行為が作曲のような感じになっているかもしれない。

数か月前にアマゾンで注文したスティーヴン・ショアの「アンコモン・プライス」完全版が忘れていたころに届く。でかくて重い写真集。いままでダイジェスト版みたいなのを持っていたが、やはり完全版は見ごたえがある。この写真集を日本人が見るときに思うこと、アメリカ人が見るときに思うこと、全然違うんだろうな。

今になって「アンコモン・プレイス」を買ったのは、ニューカラー風の選択をする選択眼を立ち上げるため。この写真集をみることで自分をなんちゃってショアにしてから、自分の撮った写真を選ぶことで、ニューカラーっぽい写真が選べるようになる気がしたのだった。そんなもんではないだろうな。

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