はじめてのありふれた町

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16日日曜日の散歩の続き。東急池上線(山手線の五反田駅京浜東北線蒲田駅を結ぶ私鉄の路線)の小さな各駅に降りたことなどほとんどなかったが、それでも駅名くらいは聞いたことがあるだろうと思っていたが、二年か三年前に、久が原駅から歩いて行く昭和のくらし博物館高野文子の原画の展示を観に行ったときに、名前を知らない駅が三つくらいあることに気が付いた。そのうちの一つが「御嶽山」と言う駅だった。最近環状八号線を自家用車で走る機会が増え、ナビの地図を見ていて、その駅からすぐ近くの交差点が「御岳神社入口」と言う名で、そうか「御嶽山」駅には「御岳神社」があるんだな、と言うことを知りました。ナビの地図を見ていると、環状八号線沿いに神社がたくさんあるように思える。しかし、そうではなくて、そもそも都内のどこを切り出しても、これくらいの数の神社はあるものだろうか?池上線や多摩川線や大井町線沿いの小さな駅を順に降りながら、神社を辿るってのは楽しいだろうか?などと思ったりしたが、これって土曜か日曜の午前中などにテレビでやっている「各駅停車の旅」そのもので、なんだか年相当な感じの思い付きなのだった。まぁいいか、そんなことを思いついたところで、結局は頭のなかで、気ままにふらふらと散歩する、と言う自由さに対して、敢えて目的やタガを嵌めている。突然ですが・・・そうやってタガを嵌めることは不自由と引き換えに安心を得ようとしているのか、とか急に思いついたりする。

小さな駅に降りても、もちろんその駅を最寄り駅として暮らしている人が大勢いて、その人たちのスーパーマーケットがあり、ドトールタリーズのようなカフェがある。住んだことのないその駅のある街で暮らすことを、引っ越す予定などなにもないのに、ふと想像したりしませんか?どこへ行っても、ここに住んだら暮らしはどうなるだろうか?と思う。住んだことがないからそんな淡い想像であっても、どこであろうが、なにか今とは違う幸せのようなことが起きるのではないか、と思ってみたりするのだった。これは旅の動機と同じだろうか。旅の動機は「ここではないどこかへ」行きたいと言う発意が根源にあるエネルギーかもしれない。面白な、と思う。いま住んでいる場所ではない新しい場所で暮らしてみたいと言うのは旅と同類の発意だろうけれど、それは結局は旅の対局にある日常の暮らしに対しても思ってしまう。だから結局のところはそんなのは夢のようなことで、なかなか思い描いたような幸せが手に入らないのに。しかし万が一に偶然が重なって、幸せが手に入るかもしれないですね。

御岳神社、素敵な神社。いい空気。清澄な雰囲気。蝉の声。これは2020年の8月のある日のことだけれど、日本の夏のいつものことである。いつものこと、は、大事。

 

相変わらず古いレンズで撮っているので順光でさえフレアが被っている。

 

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早朝の大井町

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一昨日の真昼間に大森で撮ったスナップ写真、カメラのISO感度設定を(自分の意図とは違う設定に)間違ってしまったので、なんとなく悔しい。そこで今朝は家を6時過ぎに出てリベンジ気分でオールドレンズによる街角スナップに出かけてみたが、なにしろ日本列島、熱中症警報発令中で36℃37℃は当たり前で場所によっては40℃を越えてくるらしい。なので一昨日の真昼間とは太陽の位置が異なるものの、早朝にしたというわけです。同じ町で同じ写真を撮りなおそうなんてことを思っても、そんなことは出来るわけないので、一昨日の大森ではなく今日は、大井町から始める。実際には大井町、旗の台、御嶽山、池上から蒲田、そして大森、と午前のうちに撮って歩いたのだが、今日のブログには大井町で撮ったなかから数枚を載せておきます。全身汗でびしょびしょになる。なんで、こんなことをしているんだ?と思うけれど、真夏の日差しに照らされた町を撮るにはそうするしかない。こまめに水分を補給し、日陰を選んで歩いた。

と、興奮気味に今朝の行動報告をするのはさておき、新型コロナウイルスによりいろいろな行動制限が起き始め、それによって経済活動が停滞したり、個人に立ち返れば飲み会とかまったっくなくなってしまったし、その後はテレワークやら自家用車通勤やら、いろいろな変化が起きてしまったわけだけど、その「起き始め」たのが、2月なのか3月なのか、仮に3月ころから身に染みてそうなったのだとすると、3,4,5,6,7,8と、もう半年経っている。そしてここから同じ時間が過ぎていくと、半年後は来年の冬の頃になる。そのときにどうなっているのか?ロシアとかイギリスとかアメリカとかワクチン開発が盛んなようだが、それによりオリンピックにも目途が付いているのか?世の中全体がどうなり、その中で自分の属している小さな社会やもっと小さな個人的なことは、どうなっているのかな?不安だらけだけれど、夢というとおセンチすぎるから、うーんと希望、かな?は持っていたいと思います。

私は夏が好きだから、この猛暑に辟易としながらも、秋にならなくていいや、とも思ったりしている。

 

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気温35℃の町 ISO12800

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炎天下の町をスナップしよう。数日前のブログにそんな気は起きないと書いたけれど、いやいや!短時間だけでも熱中症にならないようにこまめに水を補給しながら町をうろつこう。そうすれば厄介ごとやらなにやら、みんな忘れて夢中になれるだろう。

と思い立ったが、なんとなんと、いつのまにかデジタルカメラISO感度設定がAUTOから12800に動いてしまっていて、みなこんな風にグラデーションが失われ、低解像に陥った、まるで動画フイルムの一コマから起こした写真のようになってしまっていた。

だけど、真夏の気分に、これ、けっこう合っているのではないか?と思ったりもするわけです。

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朝7時で猛暑だった

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今日は先日より晴れていて遠くまで見通せるのではないかと思ってテレワークで会議に出席する時刻までのあいだに帰宅するように時計を気にしながら湘南平に車で上がってみたが、結局はずいぶんとガスっていて遠くなど見通せない。江の島ももやもやと見えるだけだった。上ったばかりの強烈な太陽の光が住宅街の屋根に反射して、パッチワークのような模様を作り出しているのだった。家を出るときに朝の空には下弦の月が浮かんでいたが、湘南平では気が付かなかった。気が付かないだけでちゃんと浮かんでいたのだろう。

それから私はカーラジオから流れる歌を聴いて帰りました。

♪たとえば僕が間違っていても、正直だった悲しさがあるから♪

とか

♪世代なんか嘘さ、夢と笑えホロ苦い若さ  みんな何処へ消えた、旧い親しい友よ♪

とか。

 

友人の友人の本がなにかの賞にノミネートされたそうです。(大賞はのがしたけれど)

これが実に面白いのです。

 

児玉まりあ文学集成 (2) (トーチコミックス)
 

 

 

 

 

踏切

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 いかに暑くても真夏の日差しに照らされた町は魅力的だと思います。踏切で止められた車の前を私鉄の電車が通って行く。白いTシャツに赤いキャップを被った若い(たぶん)男の後ろ姿が見える。例えば去年の夏休み、一昨年の夏休み、五年前の夏休み、どこへ行ってなにをしたか?誰と話して何を感じて、何を得たか?何を食べたか?そして、誰を傷つけてしまったか?誰かに頼ったか?誰かを裏切ったか?(吉田拓郎の「今日までそして明日から」の歌詞みたいになってきた)そんなことを並べることができるほどに記憶は鮮明ではない。けれど、このパソコンにつながっているHDDに大量に収められている写真をたよりに、私が見て撮った、去年の、一昨年の、五年前の夏の写真を見返せば、そういったそのときの状況や気持ちもくっついて思い出せるのかもしれない。そのときに撮影者はいちばん身近な鑑賞者になり、写真の力を利用して写真とリアルに紐づいている、そう言う「物語」を思い出すだろう。しかし、撮影者ではない第三の鑑賞者がその写真を見たときにも何かを思い出すかもしれない。より抽象的だったりあるいは「雰囲気」から同じ「雰囲気」の記憶を。

例えば先日のNHKeテレの「日曜美術館」で戦争で亡くなった若き画学生(や若い画家)の作品を紹介していたが、もちろん紹介される絵画作品そのものに込められた思い(を間近に感じられるよう番組は作られているからまんまとはまって)に思わず涙がにじんだりもしたけれど、その画家や作品制作現場やモデル(たいていは恋人や奥さんだったりする)などが写っている写真が「資料」として写ると、それはあくまで「資料」なのだけれど、どうも絵画と並列にその写真の力にも目を見張ってしまうのだった。

そうえ言えば去年か一昨年、ボナール展に行ったのだが、そこに展示してあったボナールの写真のことはいまでもよく覚えている。なんだろう、絵画以上に「とある一日」が見ている第三者にも転写されるような力を持ちながら写っているからだろうか。それとも私がただ写真に過剰反応するようになってしまっているからだろうか。

オニユリ レンゲショウマ ワレモコウ 

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8:30に到着したので駐車場で開園の9:00まで待ってから入園した。箱根湿生花園。夏のあいだの数日だけでも6時開園の日なんか作ってくれると行ってみたくなるだろうな。1970年代の50mmF1.2レンズ。せっかく全身金属鏡胴の重量のあるレンズを使っているのだから、その重さと引き換えのF1.2でボケ味を撮ろうではないか、と思うのだった。最近のデジタルカメラはマニュアルフォーカス時にピントの合っているところに色が付く設定などもあり、薄いピントでもピントをはずすことは少なくなった。例えば下のような写真はそのピントの合った範囲が同距離の帯になって距離環を回すと、手前から向こうへ、向こうから手前へと、動くのがなんだか風になびく早稲のよう。

もう40年以上前85mmF1.8を手に入れてポートレートを撮ったことがあったが、F1.8の開放でバストアップ人物写真をマニュアルフォーカスで撮って、目にちゃんとピントを合わせるのは至難の業だったな。ふとそんなことを思い出しました。もっと言うと、それは当時好きだった女の子をたくさん撮ったときのことで、大学の研究室の暗室で、休日に写真を引き伸ばしたとき、あまりにもどれもこれもピントをはずしているので、がっかりしたのだった。ちょうど竹内まりやがデビューした頃のことで、卒論を一緒にまとめたK村君が(彼も暗室で一緒に女の子の写真をプリントしていた)ずっとシャスト・フレンドって言う曲を歌っていた。些末なことが記憶されてる。

写真と言う日本語は真を写すと言うことだけど、写真の歴史は「真を写さない」方向に裾野を広げてきたのではないだろうか。第一、最初がモノクロームなのだから、真から色を取り除いたところからスタートしていて、これイコール「真にはある色を取り払った真ではない世界」と言うことになる。最初期は真を写し取るのにふさわしい標準レンズが生まれたのだろうが、やがてレンズ効果(パースとかデフォルメとか圧縮効果とか、言い換えると超広角や超望遠や魚眼が)がその「真でない」故に得られる迫力や驚きを提供しようとしてきている。ボケ味を作ることも目で見た真から離れるってことだろう。

何ていう技術的なことよりも、カメラマンがどこを見ていてそこを撮るに至った動機や決定はなにによって脳の中で下されたのか、と言うこともあるだろう。すなわちどこを撮るかに誰でも共通の『「真」はない』。いや「写真を撮る名所」と言うのはその『「真」はない』を覆して「真」になるよう皆の視点を揃えようとしている。

難しい。

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フイルム時代のレンズの急角度な光線 遠くから写すことの意味

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昨日はホワイトバランスの設定をミスったのでそこを確認したのにち、今日は昨日の25mmではなく、同じくライカスクリューマウントの19mmのレンズを付けて、湘南平平塚市と大磯町のあいだにある相模湾を見渡せる公園)に行ってみる。昼頃です。で、撮れた写真が上のような周辺光量がはなはだしく低下し、中間像高から周辺にかけて色が赤くなってしまうのだった。なるほどね、フイルムは感光面がフイルムの表層だからどんなに斜めから光が来てもちゃんと感光したのだろう。CMOSは光を取り込む画素ごとの「井戸」だから、ある角度より斜めから来る光はちゃんと受け取れないってことか。だから、フイルムの頃にはフルサイズフイルムのカメラなのにオリンパスXAとかフジのティアラとか小さいカメラが出来たんだな。上の写真はいかにも色がへんちくりんになってしまったので、これは下のようにモノクロにすれば色のへんちくりんは見えなくなる。そりゃそうだろう。まぁこれは技術の話なので写真の良し悪しは、それはそれとしての話です。

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湘南平には超望遠レンズも持っていき(借り物です。これはオールドレンズではないです)撮った写真をさらにトリミングしてみた。たぶん1200mm超望遠くらいの画角。すげえ、突堤で釣りをしている人たちが見て取れる・・・って、それだけのことで、だからなに?という感じもする。結局はこういうレンズはスポーツや飛行機や鉄道や鳥や、従来から超望遠が必要と言われる現場がしっくりくるのだろうな。