気に入る写真とは

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数年前の花火大会。このときは開放F1.8の28mmレンズでデジタル一眼レフカメラISO感度も(その当時で)3200くらいまで上げれば、1/8秒くらいで手持ちでもなんとか撮れるんじゃないか?とそれまでこういう花火というより集まった人を撮りたいのは変わらないものの三脚は必須だったのをやめてみたのだけれど、ほとんどぶれていて(これもぶれている)がっかりしたものです。何年かたつとそのがっかりも消えて、これはこれでライブ感があっていいんじゃないか・・・とはならずにこの日の写真はやはり全体として失敗な感じなのだった。だけど最近こうして数年前(五~十年)の写真を見直していると、例えば100枚の写真があって当時のコンデジにせよデジタル一眼レフにせよ、ISOは上げられず、手振れ補正はなく、暗いところのAF精度は低く、いまよりはるかに機械からのアシストがなく、第一には画素数が少ないせいかモニターに写真が現れた瞬間になんかぼんやりと眠い感じもする。そして写っている写真もそういう状況も背景にしてなんだかつまらないものばかりの気がする。ただほとんどがつまらなくても、たまにこれおもしろいね、というのが見つかるとそのおもしろさは、今度は最近撮っている写真より飛びぬけていることが多い気がする。それが機械がいまより劣っていたことがなにか必然的失敗が偶然的におもしろさを生んでいるからなのか、自分が若くていまよりちょっと感性が鋭かったからなのか、は不明です。どっちもあるだろうし、両方が重なっている場合もあるんだろうな。

ただ最近は町など撮るときにデジカメに表示される水平が出ていませんよの表示などが気になる。それで水平を出そうとシャッターを押す前に少し時間を掛けてしまっている。そういうのもいけないのだろうか。いや、いいとかいけないとかの話ではなくて・・・そういう変化がありました。

五年十年前の写真を見ていると気に入る写真と、その写真が高画質であること(ぶれてないとかノイズが少ないとかピントが合っているとか)との相関性はそんなに高くないよなと思うが、それは大前提に何が気に入るかの条件でそういうものの順位が高くないってことで、これはもう個人の嗜好だから、結局は特別なことは書いてないですね。

白い夏

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晩夏とは言え、それを感じるのは朝や夕方であって、昼間の陽の光の強さはそれを隠すかのように獰猛なままだ。陽の光で町が真白に光る。町は漂白されて乾いて軽くなっているのか。誰かものすごいスラッガーが打ったホームランの打球が勢いよく伸びて伸びて・・・だけど結局その打球は伸び続けて宇宙に行けるわけではなく、頂点を越えたら落ちていく。晩夏を感じるまではその打球が宇宙まで行けるような気分だけれど、いや気分というより盛夏にいて晩夏を忘れている(故意に?忘れている)、ある日、打球が頂点を越えていることに気が付く、というより必ずそうなることを忘れていたことを思い出す。あぁ、夏休みの終わりの数日間の焦燥は晩夏を感じて冷静になって・・・それで宿題が残っているという現実にふと気づく(笑)小学校の頃、そうなると愕然として夜に寝付けない。だいたい8月28日くらいのこと。それでも焦りのあとに残り三日でどう残りの宿題をこなすかを計画して実行してなんとか間に合わせていたと思う。宿題のドリルみたいなのは7月中に終えていたので残っていたのは自由研究的なのとか読書感想文とかポスターを描くとか、そういうのだったのだろう。自由研究ってなにをテーマにしたのかぜんぜん覚えていない。唯一覚えているのはある年に甲子園の夏の高校野球に夢中になって、その一回戦からの試合結果を毎日毎日新聞から切り取ったりしながら結果をまとめて提出したことがあったのだが、まぁ確かに今思うとそれって子供の夏休みの自由研究って感じではないですが・・・そのときはこのデータをまとめること、そこから今年は西日本勢が強かったとか少しは結果考察をしたのだろうか・・・そのレポートがまったく評価されなかった、そっちの方をよく覚えている。

もう六十回以上も夏を過ごしている。ひとつひとつの真夏に感じたことやエピソードがあるはずなのに、それを何歳の夏にこんなことがあった、と具体的に覚えている数ってほとんどないですね。瞬間瞬間の記憶はあるけど、少年の頃に初めて母が手ぬぐいで自作してくれた捕虫網(もどき)でニイニイゼミを捕まえることができたときの喜びとか、小学生の頃に水泳が苦手でクラスでいちばん気の合わない奴と「泳げない組」にされて顔付けとかバタ足とかを一緒にやらなくてはいけないのが嫌だったこと・・・でもこんな風に子供の頃のことが多くて、例えば十代後半とかの一番青い春の年の頃ってなんか、暑い暑い、やることない、つまんない、ってだらだらレコード聴いたり映画見たりをたまにしながら無駄に時間を過ごしていた、というよりそういうのに無駄とか有益とかは実際にはなくて、ただそんな風に過ごしていただけって感じ。だからそういう漠然とした気分の記憶がまず出てきますね。

ここ十年くらいについてはこのブログを自分で読みなおすといろいろと思い出すこともあるのだろうがそういうことはしないものですね。

晩夏

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今日のブログは今日撮った写真です!

日が暮れる頃に相模川河口あたりにいる。海沿いのサイクリングと歩行者用の小路を少し東に歩いてみる。南からの風が気持ちよい。真昼間はまだ真夏の一日と同じように蒸し暑かったが、夕暮れ時になるともう夏が終わりかけているのがよくわかる。人が晩夏を知るのはどういうところに五感が感応しているんだろうか。だんだん日が暮れるのが早くなっているからか、空の雲が少し高くなっているからか、虫の声が増えているからか、ツクツクボウシが鳴き始めているからか。そういう具体的ななにかの変化ではなく生物として遺伝子に刷り込まれている時間間隔がもう夏が終わるということを自動的に知らしめるのか。では晩夏を感じるとなんでちょっとおセンチというか哀愁というかそういう気分になってしまうのだろうか。でもこの年齢になると図太いもので、若いときにあったかもしれないこのおセンチや哀愁に負けてすっかり寂しくなってしまう当事者にはならずに、そういう季節が来たぞ!と傍観者のように楽しんでいるかもしれないな。それでもって晩夏は好きですね。以前もこのブログに書いたかもしれない持論だけど、まだまだ人類がいまのような文明の元に安心して生きるようになる前、洞窟のなかで火を焚いて猛獣の来週に備えていたような大昔(2001年宇宙の旅に出てくるような原人の時代)にはやはり寒く長い夜の冬は生存にとって脅威であり、日が短くなることを体感するってことはその脅威へ備えるべしという警告だったろうからそこで覚悟と諦めと悲壮のような気持ちが起きていたのではないか、そしてその名残がいまでも晩夏になるとちょっと哀愁のような気分になる・・・という「挽夏の理屈」を考えたことがありました。

これはまったくもって個人的な感覚だと思うけど晩夏にはソプラノサックスのジャズが似合うと感じます。などと書こうとしたらナベサダのパストラルという曲が頭のなかに流れ出しました。

 

 

十年前

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8/7付けのブログで最近撮った写真を使って以降、ずっと数年前に撮った写真を引っ張り出して使っています。これは2011年の7月某日に撮ったもののようですがいつもどおりこんな写真を撮ってあったことはなにも覚えてない。前後の写真をずっと見ているとなんとなくその日にこういう場所を辿って一日を過ごしていたということは思い出すものの。たくさん写真展を回っていたようです。場所がどこだかわからなかったので、この写真はブログ用に解像度を落としていますが、元写真を拡大表示して交差点の信号のところに書いてある場所の名前を読み取ったら昌平橋とあった。昌平橋ってどこだろうと思ってグーグルマップで調べたら、お茶の水と神田の中間あたり(秋葉原にも近い)交差点だった。いまも夏だけれど、夏の日差しの下を汗をかきながら写真展を回ったり気の向くままに路地を折れながらスナップをして歩くことなんか出来ない。とか、毎回毎回ブログに愚痴を書いてもしょうがないですね。この写真は、横断歩道を渡っている女性のスカートの色が目を引く(このスカートがいいというのではなく写真としてのポイントになっている)。ゴーストも光の強さを示唆しているし車の窓の位置に出ている絞りの光芒もきれいだと思う。国道の標識やタイムズ駐車場の青やオレンジや黄色もきれいだと思う。とかなんとか自分の撮ったなにも覚えていない写真を見て、改めて気に入っているところを列記してもしゃあないか。。。

土曜日。HDDに録画してあったテレビ番組をいくつか見る。そのなかに現代美術の大竹伸朗と写真家の石川直樹が互いにスイッチしてインタビューするスイッチ・インタビューがあった。前半は新宿の音楽バー(大竹さんの行きつけの店らしい)で石川がインタビューワーになり大竹がそれに答える形、後半は石川の事務所でその逆のインタビューとなる。中一のときに母親に連れて行ってもらったレンブラント展でその絵を見てから油絵具を欲しくなったこと。美大に入ってすぐに北海道の牧場で働き自分のやりたいことがなにかを見極めようとしたこと。そのあとにロンドンに行きある日ノミの市でマッチを貼ったスクラップブックと大量のマッチ箱を手に入れ、これこそがやるべきことと天啓を受けたこと。そういう経歴が紹介されながらもその間に作品を作り続けることをなにか理路整然と理屈では説明せずにただ熱意の継続が根底にあることだけを感じさせるから美術家としての魅力が伝わってくる。年の差とキャリアの差があるから当然なのだが石川直樹大竹伸朗に教えを乞うような形になっていく感じだった。石川直樹も素直に受け答えしていて媚びてもいないのがいい。印象に残っているのは「コンセプトになっちゃうとダメなんだよ、愛がなくなる」と言った意味のことを大竹が言ったところでしたね。たしか作品の意味とかそれを作る理由とかを考えるかどうかといった話だったろうか。うろ覚えだけど二回か三回前の横浜トリエンナーレで大竹の出していた懐かしい小物や紙物をたくさん詰め込んだ記憶の車だか汽車だったか小屋だったかな、そんなようなオブジェが面白かったことを思い出した。そこからレイ・ブラッドベリの「たんぽぽのお酒」だったかな、そこに過去を大事にする老人が記憶を閉じ込めるタイムマシンなのか汽車だったかなそういうマシンを作ろうとするが結局壊れてしまうような話があったことを今急に思い出しましたが、いつも通り記憶があいまいなので全然違っているかもしれません。

 

 

静の海

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1969年に人類が最初に月面着陸をした、その日に私がというより父が買ったばかりだったカセットテープレコーダーに、NASAと月面着陸したアポロの宇宙飛行士のやりとりを生中継(だったと思うのだが・・・)するテレビ番組の音声を録音したものだ。テレビのスピーカーの前にマイクを置いたんだろう。たしか鳥飼さんという同時通訳の女性がやりとりを日本語に翻訳していて、それもまた注目されていた。同時通訳の「同時」の難しさもずいぶんと報じられていたと思う。小学校6年生だった私はずっとテレビの前に座りっぱなしで番組を観ていた。あのときは、アメリカのというより人類の偉業として、次々に新しいなにかに挑戦しては成功していく宇宙開発に対して日本の片隅にいた少年はなんだか誇らしい気分になれたものだ。ベトナム戦争が起きて、反体制と反戦の主張のもとヒッピー文化が大きなムーヴメントになり、ジョン・レノンがラブ&ピースを主張し・・・という60~70年代の戦争の時代だったにもかかわらず、一方で(実はこれも米ソの競争だった)宇宙開発の成果は、片隅の少年にとって国ではなく人類の進化としてうつり、だから未来は明るいということがなんとなく信じていたかもしれない。世界の政局や情勢はまだ難しくて理解できなかったのかあるいは知ろうとしなかったのか・・・学校で教師が戦争について時事解説のようなことをしたこともなかったな。ただ高校のときに英語の土橋先生がベトナム戦争終結したことを興奮して話した日があったことだけは覚えている。

アポロ計画が進んでいた60年代のどこかで定期購読を申し込んでいた「科学」という少年向け月刊誌の付録にこの月球儀があった。それをなぜだか2011年の7月のある日にこうして窓辺に置いて逆光のなか写真に撮ってあるのを見つけました。いまも捨てずに持っています。静かの海のところに紙を切った丸印と矢印が貼ってある。これは月面着陸地点に私が貼ったものだと思う。

少年の私は、月が地球に対して一公転で一自転(だからだっけ?)であってだから裏側が見えることがない、とい事実がとても怖かった。その事実から少年が考えたのは、月は実は宇宙人の基地であって、地球から見えない裏側に基地の出入り口があり、人類に気が付かれないように地球侵攻の準備を進めているのに違いないということだった。そうでなければ都合よく片側しか見せないなんてことにならないのではないか?

ほほえましい話としては、アポロ計画の様々な宇宙空間上での実験の名前に「ランデブー」とか「ドッキング」とか言う単語があり、それを恋人たちの行動に置き換えて使うのが流行ったことだったが、いまも通じるのだろうか?と思いウェブリオ辞書とかで調べるとちゃんと載っている。だけどそこにはアポロ計画の頃に恋人たちの行動を比喩したことからその意味でも使われ始めた、なんてことはどこにも書いてないから、これは私の勘違いなのかもしれないです。ただ少年はアポロ計画で例えばランデブーという単語を知り、それが恋人たちのデートみたいな意味でも使われている(使われ始めた)ことをそのときはじめて知ったのだった。

世界記録とか世界初といったことが誰にでもわかりやすいテーマ(挑戦)としていくつもあった時代だったってことだろう。

いまメッセンジャーRNAワクチンがモデルナとファイザーのワクチンとして接種されている。私も二回打ちました。詳細はまったくわかんないけど、ハンガリー出身の科学者カリコー・カタリンさんにより研究されていた技術を製薬会社が応用してコロナワクチンとして接種されている。もしかしたらこの研究があと数年遅かったら、まだ人類はこのタイプのワクチンを手にしていなかったかもしれない。彼女の研究(とその後にそれを応用しつつ実用化に持ち込んだ多くの開発者の努力)がなければ人類の死者はいまの数十倍になっていたのかもしれないですね。少し前のNHKの番組でこのカリコー・カタリンさんの特集があり、京大の山中伸弥さんの研究がヒントになっているという話をお二人の対談で言ってました。

でも、初めて月面に降り立ったアームストロング船長が「この一歩は小さな一歩だが人類にとっては大きな一歩だ」と言って片隅の少年が賞賛を感じえなかった時代のようにはワクチン開発というテーマはわかりやすくない。

まぁわかりやすくなくてもいいといえばいいのですが・・・(最近日本人がノーベル賞をとるとその研究内容が解説されるけれど結局どこがすげーのかなかなかわからないし、そのとき理解しても忘れちゃうし・・・)

夢に出てくる町

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相変わらず古い写真でごまかしていますが、これは2014年8月13日の横浜大桟橋。このブログのその日付の記事があるけれどこの写真はアップしてなかったので、晴れて七年後の今日に使います。でも少しフレアっぽいですね。このころ使っていたのはAPS-Cサイズセンサーのデジタル一眼レフカメラで、24mmの単焦点レンズをよく使っていた。フルサイズに換算すると38mmくらい。そのレンズがちょっと曇りがちだったからだろうか?

『昼間は暑かったけれど、夜になり風が気持ちいい。夕方にざっと夕立が通り過ぎたあと涼しくなった。良く冷えたビールにライムを落としてオニオンリングを食べながら飲みましょう。正面には横浜みなとみらいの観覧車や帆の形をしたホテルや背の高いランドマークタワーが見える。それにしても船の汽笛というのはなんでこんなに寂しげで、そのくせなんでこんなに旅へ誘うんだろうか。何か知らないことを知るために旅に出るときは寂しさから出発するのがいい。すると旅の出来事がみな良きものになるよ。。。ねぇ、なにか話をしてくれる?まだ僕の知らない君の冒険の記憶を』

こんな風だろうか。この写真の中に固定された誰かのはなし。

 

昨晩は22:00に眠り、深夜の2:00に目覚めてしまい、3:30ころまで寝付けずにいてそれでも4:00頃から一時間寝て5:00にアラームで目が覚めた。この4:00から5:00のあいだの浅い眠りのなかで夢を見ていたが、なぜか私はたぶん行ったことがないのに「武蔵小金井」にいるのだった。しかしそれは実際にある中央線の駅名だけれど夢に出てくる道筋や駅前ビルは架空の町だろう(だって行ったことがないのだから)。なにか古い店がたくさん入っている雑居ビルが駅ビルでそこの店をいくつか見て回るのが楽しいのだった、夢で。そして楽しく歩き回っているのだが、ふと気が付くとマスクがなくてどうやらマスクは気を付けていないとすぐに外れてしまう。だからマスクについては注意を怠らないようにしましょう。などと思っている短い夢。

その夢からアラームで覚めて目覚めてすぐにカーテンの隙間から外を見たら、世の中が山吹色の光で満ちているのだった。それだけのちょっとした非日常で朝が少し楽しい気分になるのだった。会社に行くために車を運転しているときにAMのNHK第一放送を聞いて行った。日によってくるりを聞いていく日とラジオを聞く日にわかれるのだ。今日は何の日というコーナーがあって今日と同じ8/19、過去の19××年や200×年の8/19になにがあったかを教えてくれる。たいていは、へぇ!そうなんだ!と思うが、すぐに忘れてしまう。上の写真を撮った日時はEXIFデータに書き込まれているから写真データから画像をモニターに展開表示するソフトであればどこかにその情報も出ていることが多い。あるいはサムネイル画像を右クリックすると出てきたり。するとこの写真が2014年8月13日の夜19:50の32秒に撮られたものだとわかった。19:50までならとくに気にもしなかっただろうが秒まで書いてある。そこまで正確に過去の時を確実に記録してあるのがなんとなく50分までで終わるのと違って心がざわつくのだ。過去に流れて刻まれてそこを過ぎてきたに決まっている時間ではあってもそこに秒まで表示されると妙にリアルに過去にその時刻があってそこを自分は写真を撮りながら通過してきたんだというリアルな感触を覚える。そして50分までではなくその秒単位の過去の時刻に、ではではAさんやKさんはなにをしていたのか、BさんやNさんはそのときなにを考えていたのか。分でなく秒を意識することでそういう過去にあった一瞬にだれだれがどこでどういう一瞬を構成(?過ごしていたか?迎えていたか?なんか言い方が難しい)していたのか?そんなことはこうして写真に痕跡が残される場合があるもののほとんどはどこにも残されないまま忘れてしまう。残らなかったAさんKさんBさんNさん・・・のその過去の一瞬のときのこと(状況)をタイムマシンに乗ってそこへ行かなくてもいいけどせめてタイムマシン鏡のようなもの(ユーミンの魔法の鏡が時間も越えられるような?)で見ることが出来たらいいのにな。と、秒まで記録されている写真データに気づいたせいでそんなことを思うのだった。

きっと愛しく思うのだろう。

 

憂鬱

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猛暑だったり、そのあと雨の日が続いたり、そういう気が起きなかったりで、たぶん十日間くらいほとんど歩いていない。電車で通勤していた頃は平日は自動的に5000歩~7000歩は歩いていたが自家用車通勤に切り替えてからは出社して帰ってきて2000歩程度だ。以前は休日は写真を撮り歩いたり美術館を巡ったりで、平日のそれ以上歩いていた。この五月六月七月は意識して歩くようにして(手術後のリハビリもあったので意識的だった)いたが、8月の上旬まではまだしも、その後は歩かなくなった。写真もほとんど撮ることがない。というわけでこの富士山と砂浜に集まった人がシルエットで写っている写真を撮ったのは今年ではなく2012年。もう9年も前の写真だ。この日はこのあと茅ケ崎花火大会があった。それを待っているときに撮った写真だ。海岸で打ち上がる花火は少し遠くからでもよければ、ずっと繋がっている砂浜に行けばビルなんかもないのできれいに花火が咲くのが見えるのだ。この写真はなんだかありきたりな写真だな。富士山があって人々をシルエットでとらえて少しぼんやりとした色の淡い夕焼け。それでいままでどこにも使ったことがないし、こんな写真を撮ってあることなんて覚えてもいなかった。でもこうして9年経ってからたくさんの写真を見直しているときにたまにはこんなのもいいねと思ったのかもしれない。写真を選ぶことにさえ気力が失せているのか。

コロナの感染者数の増加はとどまるところを知らず、わたしはすでに二回のワクチン接種を受け、二回目後に三~四週間を経ているのだけれど、憂鬱な感じはまったく変わらない。早くなにも制限のない暮らしをしたいものです。

書くこともこんなことくらいしか思い浮かばないのでした。