七里ガ浜から鎌倉駅まで

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密を避けて、朝の電車に乗り(藤沢から七里ガ浜までの江ノ電はずっと席が埋まらない程度に空いていた)七里が浜駅で降りて、そこから海沿いに稲村まで、稲村ヶ崎駅から線路沿いに極楽寺駅極楽寺駅から成就院のある坂道を降りていき、すこし住宅街をくねくねと歩いて長谷の駅近くに。さらに由比ヶ浜通りを歩き、御成通商店街から鎌倉駅に出る。JRは混んでそうなので再び、今度は藤沢行江ノ電に乗る。こちらも鎌倉駅から座ることが出来る程度の混み具合だった。今日の歩数は14600歩。なんて書き連ねたところで、読んでいただいている方の多くにはちんぷんかんぷんな地元的な話ですね。。。

昼は鎌倉駅の近くにむかしからある海鮮料理の居酒屋で昼の定食の牡蠣フライを食べました。私は、冬のあいだ、相当たくさん牡蠣を食べます。このブログにも平塚の某レストランで毎年食べる牡蠣のカレーの写真を、昨年載せた。年末には祐天寺の店で牡蠣のクリームシチューみたいなのも食べた。今年はまだ生牡蠣を食べていないのが残念だけど。牡蠣のすまし汁なんかも好きなんだけど食べてないな。ムニエルも食べてない。それで、結局いちばんたくさん食べる牡蠣の料理はやはり牡蠣フライってことになるけれど、生牡蠣はもとより、ほかの「牡蠣の形が表面的に目視可能な料理」はみな食べると牡蠣の味がはっきりわかるが、意外と牡蠣フライは厚い衣や、ウスターまたは中濃ソース、あるいはタルタルソースの味に押されて、肝心の牡蠣の味が表に現れないまま、頭でこれは牡蠣フライとわかっているから牡蠣を食べている気になっているだけで、実は牡蠣の味がちゃんと楽しめていない・・・ってことがとっても多いんじゃないか。と言うことに明確に気が付いてから、牡蠣フライをたくさん食べる割には、その良し悪しには厳しくなり、ときには衣の味ばかりのときなど、衣を剥がしてしまうんだけど、そういう牡蠣フライはやはり中の牡蠣も小さくて味も立ってこないからそういうのは冷凍なんだろう。その点、この鎌倉駅近くのNと言う店の牡蠣フライ定食は素晴らしく美味しいと思うのですよ。この店はほかにも刺身定食とかアジフライ定食もあって、一品物、すなわち酒と一緒に三~四品頼んで食べてみたくなるものもたくさんある。私のあとに入って来たカップルも中年夫婦の奥様も、みな牡蠣フライもアジフライも刺身も食べたーいとなっていて、刺身定食に牡蠣フライ四個を追加していらっしゃったり、一番高いなんとか(このなんとかは店の名前ですけどね)セットにして少しづつそれらを食べるようにしたり。でも牡蠣フライ五個の定食をちゃんと食べよう。初志貫徹しました。美味しい。私が井ノ頭五郎ばりの胃袋の大きさがあれば、牡蠣フライ定食に刺身盛り合わせ(二人分からしかないらしい)とアジフライを追加したいところであり、さらに、私が六角精児や太田和彦吉田類のように飲める体質であれば、定食ではなく、刺身や大将お勧めの何かを頼み、神奈川の残草蓬莱、ついで、まんさくの花、などなど冷酒を飲んだりするのでしょう・・・

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土曜出勤日

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1/8土曜は土曜出勤日。とはいえ、リアルに会社に行かず自宅でテレワークで仕事をした。遠隔会議は午前にひとつ、午後にひとつ。結局、一歩も外に出ないままに夜になった。ずっと動かないとかえって下半身が、同じ椅子に居続けることで重たくだるくなってくる。立ち上がってスクワットを何回かやったてみたり。

写真は1/3に鎌倉の由比ガ浜通にある八百屋さんの前を通り過ぎるときに撮った檸檬です。あ、ひとつ買ってポケットに入れて、ときどきその紡錘形の冷たい果実を、ポケットの中で、掌で撫でたり転がしたりすれば良かった。小学生の頃、昭和40年代、ある季節にどこから聞いたのか、母が輪切りのレモンを蜂蜜漬けにしたことがあった。ひとつの季節、例えば冬のあいだ、それが身体にとても良いのだということで、いくら蜂蜜に浸かっていてもだいぶ酸っぱいので、そのたびに顔をしかめていたが、朝食のときにその輪切りされたひとつを食べていた。それが冬だったかどうかはもうわからなくて、いまが冬でこの写真から突然そんなことを思い出したわけなので、捏造された新しい妄想であるところのこの思い出は冬のことになり、すると、あの木造平屋の長屋に住んでいたころ、南のガラス戸を通して八畳間の奥まで日差しがさし、その光の中に、普段は見えない小さなホコリがゆっくりと舞っているのが見えたものだ、なんてことがずるずる思い出される。はじめて家にガス湯沸かし器が設置されたときはその新たな文明の利器の登場が本当に嬉しかったな、とか。もうあの冬の冷たい水道の水で手を洗ったり顔を洗ったりしなくてよくなるなんて!だけど、最初に設置されたそのガス湯沸かし器から出てくるお湯は、飲んではいけない、と言われたものだったが、それはなんでだったんだろうか?檸檬の写真を撮って、こうして自室でそれをブログに使うことにして、だから久しぶりに青空文庫梶井基次郎檸檬を読んでみた。上記の「ひとつ買ってポケットに入れて、ときどきその紡錘形の冷たい果実を、ポケットの中で、掌で撫でたり転がしたりすれば良かった」なんて言うのは、小説を読んだからの想像に違いない。丸善美術書の上に檸檬を置いてそのままにして出てきてしまう話、と言うことはよく覚えていたが、その美術書は、主人公自身が次々に本棚から引っ張り出して、積み上げた本の山だったという点はすっかり忘れていた。

鎌倉のこの店でみんなが一つづつ檸檬を買うとする。写真に写った檸檬の数を数えると、たぶん50個くらいあるから、一つの高校のクラス、一つの中学のクラスの人数に足りるだろう。クラスの全員が一つづつポケットに檸檬を入れて、そしてその日の日暮れの時刻にどこかに再集合することにして、さぁ、みんな一人一人ばらばらになって、再集合するときには何らかもう檸檬は手放しているということだけを条件に、今日の一日を鎌倉で好きに過ごしてきなさい。なんてことを卒業前のクラスのイベント(?)・・・もっとひっそりとした秘密めいた行動を示す名前がいいんだけど・・・としてやってみるとしたら、私は、その檸檬をどうするだろうか。もはやそんな若い頃の自分がなにを考えどうするかなんてわかりっこないな。だけどそいつを美術書の山の上にこっそり置いてくる(仕掛けてくる、って感じ)なんてことはしないだろう。それはもう梶井基次郎のフォロワーに過ぎないんだから。どこかで檸檬に噛り付いて、蜂蜜漬けでもないからもう本当にすっぱいそれに精いっぱい顔をしかめて、すっかり頑張って汁を吸って、吸ってカスカスになった檸檬は空に向かって投げてしまう、と言うのはどうだろうか。檸檬を爆弾のように妄想するような鋭く繊細な感性はないから、それはあくまで吸って酸っぱいものなのだった。

中学や高校でないおじさんに同じことをやらせたら、どこかの店に持って行って生檸檬サワーを飲む人が多発する。

雪の翌朝

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会社の最寄り駅から会社までのあいだに路面が凍結またはシャーベット状になっていて、転ばないように慎重に歩いた。誰よりも遅く。普通なら10分弱のところ20分弱掛かった。若いころ、平気の平左な感じで、すいすい歩いて、ゆっくり歩く人を追い越していたように思う。それで一度か二度は転んだかもしれないが、それでも慎重に歩くなんて、なんかかっこ悪い感じがしたものだった。夕方の帰路、もう最寄り駅までの道の雪はほとんど解けていた。

日本人のジャズピアニスト石井彰の2001年のアルバム「Voices in the Night」に、snowという単語の入ったリリカルな曲があったな、とふと思い出し、PCの音楽フォルダーを探したら、記憶通りそのアルバムのなかに「Sometime in the Snow」という曲があり、十数年ぶりくらいで再生してみた。日本語に訳すと「いつか雪の中で」。ロマンチックな感じがする。いつか、が過去の思い出なのか未来を夢見ているのかわからないが、曲を聴いていると雪の中にいるのは幸せな恋人たちではないのかと思う。

昼間の雪は雪空を背景にして見上げると空より暗く見えることがあるから、そういう雪を「灰色」とか「黒」とか言うことは間違っていない、「白」と言う方が、よほど見た目をそのまま言い当てていないことになる。それなのに、見えた通りに「灰色」とか「黒」と言った子供を叱った先生がいたとかいないとか、そんな記事だかエッセイを大昔に読んだが、あれはなんの本だったんだろう。

概ねずっと南関東に住んでいたとはいえ、三年に一回くらいは結構な雪が降る日があったとすると、もう二十回くらいはそういう日を過ごしているのに、あんまり具体的にあのときはこうだったとか・・・そういうことって覚えてないな。たぶん電車が止まってしまい何時間か動かない電車のなかで復旧を待っていた日もあったのだが。

帰路の電車のなかで聴いていたポッドキャスト番組のなかで、パーソナリティがミスチル名もなき詩の冒頭の歌詞

♪ちょっとぐらいの汚れ物ならば 残さずに全部食べてやる♪を繰り返して言っていた。

帰宅してこの曲の歌詞をはじめてちゃんと読んでみる。

♪愛情ってゆう形のないもの 伝えるのはいつも困難だね だからdarling この「名もなき詩」を いつまでも君に捧ぐ♪

今日は私の誕生日でした。

 

Voices in the night

Voices in the night

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桜貝を拾う人

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1/5の早朝のラジオ天気予報で、南岸低気圧は予想より南に進み、雪は降っても積もることはないだろう、と聞いたのでそれを信じていたら、1/6は昼頃から南関東はずいぶん雪が降り、数センチとは言え東京でも神奈川でも雪が積もった。でも写真は雪の日に撮ったものではなくて1/3に鎌倉の由比ガ浜で撮ったもの。この人たちは桜貝の貝殻を探している。帰宅後にネットで調べると桜貝は一年中拾えるらしい。ネットには、11月が良いとか、春から夏が良いとか、いろんな記事があるようだった。そんな様子を見ていてちょっとだけ私も探してみたけれど、簡単には見つからなかったな。一つ前のブログには砂浜で拾ってきた小石のことを書いたけど、この日は小石も拾わなかった。砂浜に落ちていたもの・・・そういえば、1974年頃、高校の写真部で、家(いまの茅ケ崎の家ではなく実家ですね)からすぐの砂浜に行っては落ちているものの写真を撮っていたから、なんだ、昔から砂浜で足元に注目する癖があったんじゃないか。高校のときに撮った写真、うろ覚えだけど、小魚の死骸とか二枚貝(桜貝ではない普通の浅利のような)の貝殻とかを撮って、高校の文化祭の日に校舎の廊下に写真を飾ったりした。考えてみると魚の死骸の写真とか・・・いったいなんでしょうね。

1977年頃に、やっぱり砂浜に行ったら、ジャムの瓶が落ちていて写真を撮った。あんずの絵が描かれたラベルにはロシア語が書かれていた。ロシア語ということは、ロシア語が話せる人が、撮ってから十年後くらいにたまたま写真を見てそう教えてくれてわかったのだった。モノクロ写真だけれど、そのガラスはちょっと青みを帯びていて、傾いた日が瓶を照らしていて、あんずの絵がちゃんと上を向いて落ちていた。その写真を、なんかちょっといいな、と気に入っていたた。ずっとその瓶は海を漂って、どこかの異国から潮に乗って湘南の砂浜にたどり着いたと思い込んでいて、その物語に酔っていたんだろう。1978年には大学の研究室の先輩(大学院の一年だったGさん)から私の下宿に呼び出しがあり、Gさんの彼女のAさんが誕生日でラーケン(というお洒落なバー)でお祝いがてら飲んでいるからお前も来いと言われた。それでAさんへの誕生日プレゼントに、このロシアのジャムの瓶が砂浜に落ちている写真を持って行ってプレゼントした。たぶん六つ切りプリント。だけど、その写真を受け取ったAさんは、なにこれ?という感じで、なんでこんなつまらない写真・・・と言った感じで、終わった。

40年経ったいまになって急に気が付いてしまったのは、そんな風に海を流れてきたものだとすると、

①割れるだろうし、割れなければ、

②沈むだろうし、だいいち、

③ラベルの紙などすぐに剥がれるに決まっている。

と言うことは、あのロシアのジャムの瓶は、その砂浜に来た人が持っていて、砂浜に捨てて行ったってことだったのかな。でもなぜロシアのジャム。ちょっと調べてみると今であればロシアのジャムを通販で買うことは出来る(ってことはロシアのジャムを置いてある店もあるだろう。だけど70年代に買えたものだったのだろうか?

40年くらいずっと流れ着いたものだと思い込んでいたのだから思い込みも甚だしい。そういえば一時期急に人気が沸騰してすぐに鎮静化した「たま」というフォークロックバンドに「ロシヤのパン」って曲があった。

雪の日に書いた雪とは関係のないお話でした。

 

 

 

石の模様の形

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本日より出勤。早朝5:25頃に自家用車で出発。まだ年始で始動していない会社が多いのかいつもよりもトラックの数が少ないようで、信号もついていたこともあり(赤信号で停まる回数が極端に少なく)日の出の15分くらい前には都内の会社に到着する。車から降りると、会社の建物で起きるビル風で真っ直ぐに立って歩くけない。前傾姿勢となりバッグを抱えて必死に歩く。建物のなかは冬休みのあいだ全館暖房を切っていたのだろうか、冷え込んでいて、ついさっきONされたばかりらしいエアコンの通風口がなにやらピシピシと音を立てている。あぁ、むかし住んでいた木造平屋の古い家の柱や梁は、よくこんな軋む音を立てていたな、と思い出す。居室は11階にあり、朝食べるコンビニで買ってきた小さなうどんを電子レンジで温めているときに、朝日が昇る。ブラインドの隙間から見える遠くのビルのガラスがキラキラと輝きだした。もっと遠くのスカイツリーも霞まずくっきりと見える。今日も元旦の朝と同じような澄んだ空気の冷たい朝だ。わたしはフロアで一番か二番目に早い出勤だった。あとから三々五々やって来る、全員多かれ少なかれ私よりも若い人たち、そのうちの何人かが、年始の挨拶に席に寄っていくから、そのたびに椅子から立ち上がり、今年もよろしく、と言う。そうしてあとはいつも通り、仕事が始まった。

残業をせず早めに帰宅する。PCのすぐ横の本棚に小石が置いてある。いつ拾ってきた石だろうか、どこの浜で拾ってきたんだったっけ?なにも覚えていないが、ここ一年くらいのあいだに拾ったのだと思う。森戸か立石か、そのあたりだっただろう。海を歩くとき、小さな石ころをひとつふたつ拾ってポケットに入れる。毎回ではないけれど。たくさんの小石の中をじっくりと選び抜くわけではない。歩いていて、最初は石のことなど気にも留めずずんずん歩いているのだが、ふと小石に目が留まると、そこからちょっと足元に視線をやって数歩かもう少し、石を見ている。気になった石をひょいと拾い、砂を落としてポケットへ。それで満足して、それ以上は小石を見ない。いま拾ったものを越えるような自分なりの好きな石ころをさらに探したりもしない。そんな風に大した熱意もなく、それでも一応はいくつかの中から選んだ小石が置いてある。石のグレーの部分と白の部分がどう違うのか~成分とかそういうこと~を全く知らないが、知らなくても白の部分の形をなにかに見立てることはしてしまう。雲の形をなにかに見立てることは小さなときからよくやった。奥田民生は「さすらい」の中で「雲の形をまにうけてしまった(からさすらう)」と歌っていたな。

この石の白いところは首から上の鹿の形に私には見える。長い首、二つの眼と鼻の頭、そして角はちょんまげみたい。でもこういうのは私にはそう見えて、一度そう見えたらもうそうなのだが、ほかの人は「どこが鹿なのよ???」となり「鹿には見えないけど餃子には見えるね」となり、私は「えっ?どこが餃子なんだろう」となるのだ。

 

暮れる頃

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1/4快晴、昼は気温が12℃ほどまで上がり陽だまりはほろほろと暖かい。しかし午後4時ともなれば日は傾き、風も出てきて、もうさきほどまでの安らぎはどこへ、すっかり冬の寒さがひたひたと寄せてくる。下りの湘南電車(東海道本線)は多摩川の鉄橋を渡る。向こうの三棟並んだ高層マンションには西からの日が当たり、銀の色に輝いているが、川崎の街のビル群に日を区切られたのか、もうこの河川敷には日差しは届かず、ただ暗くなるのに任せてしまったその枯草色の広場に、最後まで帰りそびれている親子が遊んでいる。母の黒い服が浮かび上がり、少女は消え入りそうに写る。もう帰らなくては、その寂しき空間に取り込まれてしまわないうちに。JR鉄橋に並んでいる京急の鉄橋に、走って来る赤い電車も今日はいない。高層マンションの上に浮かぶ月もない。寒風のみがすすきを揺らしている。

カラー画像から色を抜いてモノクロにしてみる。そのモノクロ画像を眺めているうちに西脇順三郎の詩集「旅人かへらず」を思い出す。あの詩集を読んでいるときに自分の心に起きる寂寞とした感じ。久しぶりにその詩集を本棚に探し、見つけ、手にしてみる。久々に読むと、人も花も、それぞれに生きて、それぞれに永遠ではなく、ただ流れに身を任せ、その健気さも、その小ささも、そのほの暗さも、その生命力も、それみな寂しいこと。そんな悲しさの総体のようなことがすっぽりと私を包んでくる。そんなものに包まれて寒々しいだけかと言えば、そこに諦観のようなことが起き、その先に美を見たいと思うのだった。そしてなにより、私はこの詩集から感じることが、(稚拙だが)この写真から感じるような冬の夕暮れの気分だという覚えがあったのだが、いざ読むと、それは春が多く、夏も秋も、冬はむしろ少なく、たくさんの花や鳥の名前が出てくる詩集になっていることをあらためて知る。それでも、読んでいると、全体としてはこの冬の暮れどきのような「感じ」がするのだ。

十年くらい前だろうか、なにかの雑誌の本の特集号で(記憶が正しければ)いしいしんじ氏が西脇のこの詩集は最初に出た昭和22年の東京出版の本で読むべきだと言って(書いて)いた。それを読んで、私もその本で読みたくなり、にっぽんの古本屋で探して手に入れた。その冒頭の「はしがき」で西脇順三郎はこう書いている。

『(前略)ところが自分の中にもう一人の人間がひそむ。これは生命の神秘、宇宙永劫の神秘に属するものか、通常の理知や情念では解決の出来ない割り切れない人間がいる。

これを自分は「幻影の人」と呼びまた永劫の旅人とも考える。

この「幻影の人」は自分の或る瞬間に来てまた去って行く。この人間は「原始人」以前の人間の奇蹟的に残っている追憶であろう。永劫の世界により近い人間の思い出であろう。

永劫という言葉を使う自分の意味は、従来の如く無とか消滅に反対する憧憬ではなく、寧ろ必然的に無とか消滅を認める永遠の思念を意味する。

路ばたに結ぶ草の実に無限な思い出の如きものを感じさせるものは、自分の中にひそむこの「幻影の人」のしわざと思われる。(後略)』

冬にはセンリョウやマンリョウやアオキやナンテンや、たくさん赤い実が生ります。あれは冬にこそ幻影の人が永劫についての思いを携えてやってくる道しるべなのではないか、あるいは冬を越えて春に行き着くための灯りだろうか。・・・ずいぶんおセンチになりました・・・失礼いたしました。

 

 

 

 

鎌倉

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今日は寝坊。起きたら8時だった。9時頃に家を出て鎌倉へ行ってみる。茅ヶ崎駅から東海道線で大船へ、大船から横須賀線で鎌倉へ、乗り換えでほとんど待つことなく、30分掛からず鎌倉駅に降りる。いつも鎌倉の散歩はカフェ・ロンディーノで珈琲を飲んでからスタートする。今日は朝食もかねて、ポテトサラダトーストも食べる。カウンター席。目の前でサイホン珈琲が作られる。サイホンの原理ってどうなっているのかが推測の域を出ないまま、サイホンを見ると考えるが、答えが出る前に忘れてしまう。検索すればすぐにわかるはずだけど、こうなったら検索などせず、いつまでも考えるネタにしようか。

由比ヶ浜通りを長谷の方へ歩く。正月休みで開いていない店がほとんど。張り紙を読むと、4日から6日に開店する店が多いようだった。閉店している店も、飾られたショウ・ウインドウを隠してはいないところが多く、なんだか開店しているときよりゆっくりと眺めてしまう。それでなにか私は独り言を言っている。「何屋さん?・・・あ、ラーメンかぁ」とか。そしてそんな私を別の私が「おいおい、年寄りっぽいぞ」と笑う。昨日1/2に母の入っている施設に行って、母(89歳)、妹、私、が並んだ写真を撮った。妹はどんどん母に似てくる。その妹に言わせると、私はどんどん父に似てくるそうだ。父は2001年に亡くなっているので今年で20年になるのか。

洋服や装飾品の店だろうか、降ろされたブラインド・カーテンに隙間が出来ていて、そこから店内に飾られている帽子の広告(ポスター?)が見える。LOCK HATSとある。(サイホンは調べないのに)こっちは調べてみたら17世紀に操業された英国の老舗帽子ブランドとあった。

今日はフルフレームのミラーレスカメラに35mmF1.8のレンズを使った。1/8000秒で開放F1.8にすると広角寄りの35mmでもボケで遊べる。

由比ヶ浜通りの突き当たりを左へ折れ、その先で右、御霊神社へ。お参り。9月の面掛け行列の祭で使われる福禄寿などのお面を見る。異形や烏天狗や火吹き男や・・・お面が並んでいる。鎌倉から帰宅して、夜にBSのテレビ番組をなんとなく観ていたら、鎌倉時代に始まった面掛け行列は無礼講で、いまで言うとハロウィンが近いかもしれない、と言っていた。鎌倉時代に「火吹き男」とはどういう謂れだったのだろう。火吹き竹で火を起こす男の顔をあらわしたのだろうか。

御霊神社でおみくじを引く。大吉が出たから少し嬉しい。ところで一番下の写真はRoti girlという小さなパン屋さんで買った塩パンです。これがすごく美味しいのです。4月とおっしゃっていたかな、茅ケ崎ラスカ(駅ビル)でも販売の予定があるそう。

神社のあとには力餅屋に寄り、坂の下の路地を抜けて国道を信号で渡り砂浜へ、砂浜を歩いて由比ヶ浜の交差点(滑川河口)のところまで行き、鎌倉駅に戻った。f:id:misaki-taku:20220103221314j:plain

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