土曜出勤日

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1/8土曜は土曜出勤日。とはいえ、リアルに会社に行かず自宅でテレワークで仕事をした。遠隔会議は午前にひとつ、午後にひとつ。結局、一歩も外に出ないままに夜になった。ずっと動かないとかえって下半身が、同じ椅子に居続けることで重たくだるくなってくる。立ち上がってスクワットを何回かやったてみたり。

写真は1/3に鎌倉の由比ガ浜通にある八百屋さんの前を通り過ぎるときに撮った檸檬です。あ、ひとつ買ってポケットに入れて、ときどきその紡錘形の冷たい果実を、ポケットの中で、掌で撫でたり転がしたりすれば良かった。小学生の頃、昭和40年代、ある季節にどこから聞いたのか、母が輪切りのレモンを蜂蜜漬けにしたことがあった。ひとつの季節、例えば冬のあいだ、それが身体にとても良いのだということで、いくら蜂蜜に浸かっていてもだいぶ酸っぱいので、そのたびに顔をしかめていたが、朝食のときにその輪切りされたひとつを食べていた。それが冬だったかどうかはもうわからなくて、いまが冬でこの写真から突然そんなことを思い出したわけなので、捏造された新しい妄想であるところのこの思い出は冬のことになり、すると、あの木造平屋の長屋に住んでいたころ、南のガラス戸を通して八畳間の奥まで日差しがさし、その光の中に、普段は見えない小さなホコリがゆっくりと舞っているのが見えたものだ、なんてことがずるずる思い出される。はじめて家にガス湯沸かし器が設置されたときはその新たな文明の利器の登場が本当に嬉しかったな、とか。もうあの冬の冷たい水道の水で手を洗ったり顔を洗ったりしなくてよくなるなんて!だけど、最初に設置されたそのガス湯沸かし器から出てくるお湯は、飲んではいけない、と言われたものだったが、それはなんでだったんだろうか?檸檬の写真を撮って、こうして自室でそれをブログに使うことにして、だから久しぶりに青空文庫梶井基次郎檸檬を読んでみた。上記の「ひとつ買ってポケットに入れて、ときどきその紡錘形の冷たい果実を、ポケットの中で、掌で撫でたり転がしたりすれば良かった」なんて言うのは、小説を読んだからの想像に違いない。丸善美術書の上に檸檬を置いてそのままにして出てきてしまう話、と言うことはよく覚えていたが、その美術書は、主人公自身が次々に本棚から引っ張り出して、積み上げた本の山だったという点はすっかり忘れていた。

鎌倉のこの店でみんなが一つづつ檸檬を買うとする。写真に写った檸檬の数を数えると、たぶん50個くらいあるから、一つの高校のクラス、一つの中学のクラスの人数に足りるだろう。クラスの全員が一つづつポケットに檸檬を入れて、そしてその日の日暮れの時刻にどこかに再集合することにして、さぁ、みんな一人一人ばらばらになって、再集合するときには何らかもう檸檬は手放しているということだけを条件に、今日の一日を鎌倉で好きに過ごしてきなさい。なんてことを卒業前のクラスのイベント(?)・・・もっとひっそりとした秘密めいた行動を示す名前がいいんだけど・・・としてやってみるとしたら、私は、その檸檬をどうするだろうか。もはやそんな若い頃の自分がなにを考えどうするかなんてわかりっこないな。だけどそいつを美術書の山の上にこっそり置いてくる(仕掛けてくる、って感じ)なんてことはしないだろう。それはもう梶井基次郎のフォロワーに過ぎないんだから。どこかで檸檬に噛り付いて、蜂蜜漬けでもないからもう本当にすっぱいそれに精いっぱい顔をしかめて、すっかり頑張って汁を吸って、吸ってカスカスになった檸檬は空に向かって投げてしまう、と言うのはどうだろうか。檸檬を爆弾のように妄想するような鋭く繊細な感性はないから、それはあくまで吸って酸っぱいものなのだった。

中学や高校でないおじさんに同じことをやらせたら、どこかの店に持って行って生檸檬サワーを飲む人が多発する。