南極の氷から に書かれていることの検証

 1977年に私が書いた「南極の氷から」と題した文章を、若気の至りで、あまりに稚拙に思えた部分は加筆修正して昨日のブログにアップしました。この文章の中ではポール・サイモンのアルバムが流れている。1977年の春のプロ野球が始まった日のことで、その文章に登場する一人称の「ぼく」は概ね20歳の頃の私のことで、ただ創作文章なので、事実をベースに勝手に物語に仕立てているから、嘘八百ではあるが、よく言う私小説的な面もある。77年のプロ野球の開幕戦のことをスマホで調べることができる。1977年4月2日読売ジャイアンツの開幕戦の相手は中日ドラゴンズで、たしかに王貞治選手は第一号ホームランを打っていた。勝ち投手は堀内で、スコアは5対3だった。球場は後楽園。だけど1回から9回までの得点経過や、プレイボール時刻までは少し調べただけだと判らなかった。私の書いた文章が、それなりに事実に添っているとすると、丘の上のピストル使い(友だちのアダナ)が自転車をカッコよく滑らせて私の家にやって来たのが午後の三時から四時とあり、その時点で王貞治選手はホームランを放っている。国民的シーズンを予感とあるのは、1977年に王選手がハンク・アーロン選手の持つ生涯本塁打数755本を抜いた年になったからだ。756号は9月3日のことだった。スコアが5対3なので、試合時間はそれなりに掛かり、2時間以上3時間以内と予想。そこからプレイボール時間は13時かなと予想する。

 ポール・サイモンと書いても判らない人もいるだろうが、サイモンとガーファンクルという男性二人組のフォークロックグループのポール・サイモンだ。ガーファンクルはアート・ガーファンクル。サイモンは背が低くて、ガーファンクルは背が高い。サイモンはソング・ライターとしても素晴らしい才能だったし、ガーファンクルの声は美しかった。彼らのヒット曲は、例えば、サウンド・オブ・サイレンス、明日に掛ける橋、四月になれば彼女は、ボクサー、冬の散歩道、コンドルは飛んで行く、スカボロフェア・・・枚挙にいとまがないというやつだ。私が中学三年だった1974年、しぶちん、と言われた音楽の先生の授業で、しぶちんこと渋谷先生がなぜか明日に掛ける橋のレコードを掛けてくれた。音楽の授業でサイモンとガーファンクルを聴くとは思いもよらず、なんだか先生が仲間になったような嬉しい気分になったものだ。そのサイモンとガーファンクルがソロ活動を始めたのが1970年で、私が1977年に書いた「南極の氷から」という文章で流れているのは1975年の「時の流れに」というポール・サイモンのソロアルバムだろう。「時の流れに」にはA面の4曲目に「恋人と別れる50の方法」という曲が入っている。私の文章では「ポール・サイモンは恋人と別れるたくさんのやり方を伝授しているらしい」と書いているが、調べると、この曲の歌詞は恋人と別れるための50の方法が具体的に歌われているわけではないようだ。新しく好きになった人と新たに恋を始めるために、今までの恋人と別れる方法を考えている、そんな歌詞らしい。だけど当時の私は、具体的な方法が歌われているのだろうと思っていたから、こういう文章になったということだ。直すようなことでもなく、むしろ面白い。

 南極の氷はいまでは通信販売で買うことが可能らしい。南極や北極に氷を切り出し出荷する工場というか採掘場があるのかもしれない。1977年頃はどうだったのだろう。私の父が、誰から、どんなルートで南極の氷をもらったのかは今となってはわからない。わからないが日本の一地方都市のありふれた戸建て住宅の台所に置かれた東芝の冷蔵庫の冷凍室に南極の氷は届けられた。私は、南極観測隊が持ち帰った氷を、例えば隊員のAさんがご実家に持ち込み、そのAさんのご実家の方が、友人の5人に氷を分け、そのうちの一人のBさんの弟であるCさんが、父の勤めていた病院の検査技師で、父とは釣り仲間でもあり、相模湾で鯖を釣りながら南極の氷を分けてくれるという話になった、そんな風に思っている。鯖かどうかははっきりしないな、太刀魚かもしれない。こんな風に南極の氷がそういう人づてルートでしか手に入らなかったと思うと、なんだかとても貴重な感じがして、大事に使っていた。今でも冷凍庫に入っていた南極の氷のことを覚えている。それはビニール袋に入れられていてソフトボールくらいの大きさだった。

 南極に氷床が出来たのが5000万年前(らしい)。恐竜は2億年前から6600万年前に栄えた。南極の氷に閉じ込められた気泡がいつ閉じ込められたのか?それが5000万年前だったとすると、恐竜はすでに絶滅していたのだろうか。そこの辻褄はちょっと合わないけれど、南極の氷からという文章においては、恐竜の生きた時代の空気が気泡となって閉じ込められたと想像したし、その空気には、だから恐竜の時代の記憶も閉じ込められていると夢想している。キスをする二人の口のなかで太古の気泡がはじけて、その気泡に閉じ込められていた恐竜時代の夢を二人が同時に見るというのは、これはもうただのほら話に過ぎないのだ。

 1977年、高校時代の友だちのHさん(女性)、いまは孫の世話に奔走しているらしい、彼女が「私の家も南極の氷をもらったことがある」と言っていた。南極の氷をもらった人だけが参加できる「南極の氷秘密結社」というのを妄想するとまた別の物語が生まれるだろうか。

 2022年6月14日火曜日。それで私はiTunesのアルバムフォルダーに入っていたアルバム「時の流れに」を聴いています。外は午後になりどんどん暗くなってきて、もうすぐ雨が降り出すらしい。天気予報がこれだけ高精度になってしまうと、もうテルテル坊主を作って好天を祈るなんてことも馬鹿らしいことになりつつある。

 

1977年、ノートに書いてあった南極の氷のこと

 写真は昨日、大船フラワーセンターで撮ったユリの花の写真。単純にとてもきれいでした。

 という話はさておき、むかしむかし、学生時代に書いた文章が出て来たので一部修正してからここに載せておきます。こんなふうなショートショート風の文章が23篇綴じられていました。その中の一篇。

 

南極の氷から

 一九七七年のプロ野球が開幕した日のことを書こう。その日、ぼくは、ポール・サイモングラミー賞をとったLPレコードを流して、音を消したテレビで野球中継を見ていた。ポールのそのアルバムは、輸入レコード専門店で、ウェザーリポートとジャクソン・ブラウンザ・バンドのLPと一緒に買ってきたもので、野菜をくるむように透明ビニールにぴちっと包まれていた。ビニールを剥ぎ取らずに、レコード盤を取り出せるように、爪の先で取り出し口だけを縦に割くだけに留めている。それで、ビニールは今もジャケットをぴちっとくるみ続けている。ビニールにくるまれたジャケットは、とてもいい感じで、ビニールに反射する部屋の蛍光灯が、ポール・サイモンの顔を隠す。そんな位置に自分の目を持ってきて、あは、ポールの顔が光で見えなくなったぞ、などと遊ぶ。輸入盤のジャケットをくるむビニールをびりびりと破いて捨てる人と、ぼくのように付けっぱなしにしている人とでは、どんな違いがあるのかな。占い師に尋ねると、きっとセックスの嗜好について語ったりするんだろう。新車のシートを覆うビニールを破らずそのままにしておくのはかっこ悪いと思う。輸入盤レコードだからこそそうしたい。ジャケットをくるむビニールには直径5センチメートルくらいの丸いシールが貼ってある。英語で「グラミー賞獲得アルバム」と書いてある。

 輸入盤レコードを売っている店へ行くのは特別なことだ。電車に乗っておよそ一時間、都内のその町には駅前に大きな交差点があり、歩行者信号が青になるたびに、駅からパルコの方に行く人と、駅に戻って来る人が道の真ん中で交差する。ぐちゃぐちゃに絡まって、ほどくだけで小一時間も掛かってしまいそうな海が荒れた日の投げ釣りのさき糸のことを思い出すが、人々は絡まずに横断歩道を渡りきる。人々の服の色は流行色などあるのか?と思うほど種々雑多で色とりどりだった。これはブラウン運動的ファッションショウだな、横断歩道を見下ろせるビルの、その二階の窓の前で仁王立ちの丘の上のピストル使い(友人のアダナだ)は顎の下に右の親指と人差し指を当ててそう言った。その丘の上のピストル使いとぼくも、そのすぐあとに、小さな粒子になってブラウン運動に加わっている。

 横断歩道を渡り切り、その先の繁華街を真っ直ぐ進み、右に曲がると短く急な坂道になる。ぼくたちは意識して無意識を装い、その坂道の方へさらりと折れる。口笛さえ吹きながら。恋人たちのためのホテルを通り過ぎ、たらこと海苔を初めて使ったという人気のスパゲッティの店の前も越え、もっと細い路地へと左折する。そこは散歩のたびにどの犬も必ず片足を挙げそうな、犬にとって魅力的ななにかを備えた電信柱が目印だ。最初に輸入盤レコードの店への道を教えてくれた先輩がそう言ったのだ。先輩はなんでそこにある電信柱が犬にとって魅力的だと判ったのだろう。たぶん次から次に犬が来て、次から次に片足を挙げた、そういう現場を見たに違いない。電信柱の先には仲間が集う喫茶店だ。どんな仲間かはわからないし、ぼくはその仲間ではないけれど。そうだなぁ、店長の孝は1968年の新宿の秋の日に逮捕された前科がある物静かな男。孝の恋人の晶子は喫茶店を手伝っていて、その晶子の高校時代の同級生の何人かが偶然近くに住んでいて、ここに集まって来るようになった。一例として、そういう仲間だ。中に一人くらい東大法学部のやつがいて、二人は暴走族で週末に湘南を走りに行っている。でも心根は優しいわけだ。

 喫茶店の先にとうとう我らが輸入盤レコードの店がある。霧を分けて登場するイエローキャブのように、レコード屋がそこに現れる。入り口のガラスの引き戸には手書きで文字が書かれた紙が貼り付けてあった。たとえば『シスコの風に吹かれているみたいで、とても軽くなれるんです。ボズ・スキャッグスの新譜、おすすめです』こういうのを読むと、ぼくは少し照れてしまう。だから欲しいアルバムを買ったら、来たときと同じ道を戻って、そそくさと帰ることだ。

 帰りは普通電車に揺られること一時間十分。アメリカから船に乗って送られてきた数枚のLPレコードを脇の下に挟むようにして大事に持ち帰る。そのときはもうすっかり日も暮れていて暗くなっている。なぜだか輸入盤レコードを抱えた帰り道には、海鳴りの音がよく聞こえるのだ。ざぶーんって。

 かくのごとし。輸入盤レコードの買い出しは丸一日がかりだ。異国への旅くらい疲れるし、帰宅するとちょっと溜息が出る。だけどぼくのものになったLPレコードはなににも増して輝いている。ようこそわが家へ、だ。

 imported recordsと臙脂に白抜きで書かれている、ビニールでくるまれた数枚の買ったレコードを店の人が入れてくれた紙の袋がちょっといかしてる。この海辺の小さな町では、そんな袋を持っているやつはぼくらの他にはいないんじゃないか。だからちょっとかっこいいじゃん。ある日、その紙の袋を指さした七つも下のぼくの妹のともだち、妹とともだちは中学校で英語を習い始めたばかりだ、その妹のともだちが「インポテンツ・レコード」と間違って袋の字を読み上げる。ぼくは「違うよ、インポーテッドだよ」と言い、妹のともだちは素直に「間違ったー、きゃはは」と言う。

 ポール・サイモンが虹のことを歌ったとき、王貞治選手が一九七七年のシーズン第一号のホームランを打ち、あの国民的シーズンを予感させていた。丘の上のピストル使い(繰り返すが、友だちのアダナだ)がわたしの部屋にやって来たのは午後三時か四時頃。砂浜からの投げ釣りのシーズンにはまだ早いけれども、とても気持ちの良い日だから、奴ときたら、カーヴを高速のままかっこよく曲がった勢いで少しロックした後輪タイヤを滑らせながら、キキっと自転車のブレーキをかけて止まった。ぼくはその様子を二階の、階段の上の窓から見下ろしていて、

「おお、来たのか。じゃ、飲もう」

と言う。すると、丘の上のピストル使いは

「まだ明るいぜ」

と上を見上げてぼくに言う。ぼくは言う。

「実はいいものもらったんだ。なんだと思う?」

 南極の氷をもらったんだ。おやじがどこかからもらってきたそれが冷凍庫に入っていた。ウイスキーグラスにちょうど収まる大きさに砕いてあった。その一かけらをウイスキーグラスに入れると氷は観念した天使のようにカランカランと滑ってからグラスのなかで回った。三回転ルッツ。そこにウイスキーを注ぐ。するとウイスキーが氷を溶かし、氷の中に閉じ込められていた太古の気泡がはじけて、ぱちぱちと音を立てる。その音を聞きながら丘の上のピストル使いは、

「このぱちぱちは摂氏ゼロ℃の暖かさ」

ウイスキー会社のキャッチコピーのようなことを言うのだった。この日の丘の上のピストル使いは、いつもは断然アルコールに強いのに、めずらしく三杯程度のロックですっかり酔ってしまった、ふらふらとベランダに出ると、どーんと横になってしまった。

 寝ている彼は放っておこう。ぼくは溶け残った南極の氷を口に含む。するとぼくの舌の熱さで太古の気泡が口のなかで解き放たれる。ポール・サイモンは恋人と別れるたくさんのやり方を歌詞で伝授しているらしいが、そんなことよりも、恋人が出来る方法を教えて欲しい。

 あらま、そんなの簡単よ、と、けい子ちゃんが言う。ぼくの頭の中の妄想のけい子ちゃんが。キスしてぴったり唇と唇を合わせると、二人の口のなかで太古の気泡が行ったり来たりするじゃない。それでもう大丈夫、だって二人は同じ夢を見ることができるのよ。なるほどね、とぼくは思うが、でも反論もある。その夢に(気泡が氷に閉じ込められた太古の)翼手竜やら雷竜やらが出てきた日には逃げ惑うだけじゃないか、と。

 それもそうね、そういうとけい子ちゃんは消えてしまった。消えていく妄想けい子ちゃんの背中にぼくは言う。そもそもキスができるってことは二人はもう恋人なのでは?なんか矛盾だよ、と。彼女は答えてくれないし、振り向きもしなかった。ふと気づくと、ポール・サイモンのアルバムのB面の最後の曲も終わり、針は内側の最後の溝を何周も何周も音楽を奏でないまま回り続けていた。

 

(1977年の春に私のノートに書いてあったショートショート(若干いま加筆修正)でした)

大船フラワーセンターのヤマアジサイ

 とある書店の漫画コーナーで表紙を表にして置かれていた高妍という台湾の方の「緑の歌」という上下2巻の漫画を買った。今朝も5時前に目覚めたのでベッドの上に折り畳みの座椅子を置き、そこに座って読み始めた。途中、昨晩駅ビルの惣菜売場で買って食べきれなかったレバーフライ二切れを電子レンジで温めて少なめの白飯一杯の上に載せ、辛子をたっぷり塗って朝飯にしたり、季語の南風(みなみかぜ みなみ はえ なんぷう)をお題にしたNHKの俳句番組を見たりしながら読み進み、上を読み終わった、その後で唐招提寺御影堂を取り上げた日曜美術館を見ました。  

 漫画を買うことは滅多にない。買っても本に例えると詩集のような短編作品が多い(カシワイという方の本は2冊か3冊買いました)。なのでこんなふうにたかだか2巻だけど物語のちゃんとある漫画を読むのは、借りて読んだ「この世界の片隅に」以来じゃないかな。

 下はまだ読んでない。大船フラワーセンターに花の写真でも撮りに行こうと思い立つ。ずっと家にいると全く運動しないで1日が終わってしまう。若い頃はそんな日があっても気にもしなかったが、いまは身体を動かすことに意識的になっている。それでも昨年入院手術のあとに、リハビリもあって必ず毎日ウォーキングを科していた、あの頃よりは不健康な気がする。

 なのでまだ下の巻は読んでいないが、以下ネタバレ含みます、主人公の女の子がはっぴいえんどの 風をあつめて を台北で知り、そこから70年代の日本の音楽に惹かれて東京へ一人旅をする。新宿のディスクユニオンで旅の目的のはっぴいえんどの 風街ろまん を手に入れるのだが、そこで店内に流れている 恋は桃色 を耳にして、その曲に魅了されて、恥ずかしがり屋を返上して英語で店員にこの曲は?と質問をする。そこから 恋は桃色 を歌っているのが、はっぴいえんどで 風をあつめて を歌っている細野晴臣であることを知って………と、台北の現在の若者が細野晴臣に魅了されていく物語が展開していく。

 本や映画で感動して目が潤むとか泣いてしまうのは、感情移入した主人公に悲劇が起きたり努力が実ったり、そういうときに一緒に悲しんだり喜んだりするときに起きる。歳取ると発生確率、増えるんですけどね。ところが最近そうではなく、ただの出来事、場面、でも急にうるっとすることがあって、自分でも、なんで?と驚くことになる。この主人公がディスクユニオンでアルバム「HOSONO HOUSE」収録の 恋は桃色 に魅了されて、その曲名とアーティストを知ろうと頑張る場面で、突然それが起きた。それは私がこのアルバムもこの曲も好きで、むかしからよく聴いてきていて、すなわちオッサンの推し曲であり、それが漫画で描かれる物語の中とはいえ、若い誰かが魅了されていくことが嬉しい、という類の、すなわち嬉し涙なんだろう。

 このアルバムには 終わりの季節 という曲が収録されている。6時発の貨物列車がガタゴト音をたて、上ったばかりの朝日が窓から差し込む。聴いていると、その情景が浮かぶのが好きだ。村上春樹の 風の歌を聴け で、小指のない女の子が酔って(だっけ?)僕の部屋に泊まる、その部屋から見える風景が神戸の港だった?読み直していないからまたもや捏造された適当な記憶かもしれないけど、その部屋と窓からの風景もイメージが浮かぶ、それも好きだ。

 アマゾンのレビューを読むと下巻は涙なしには読めないとか書いてあるので、読むのが怖いな(笑)

 大船フラワーセンターは空いてました。薔薇の季節も過ぎ、芍薬がたくさんたくさんある一角もいまはただ緑一色で花はもうない。紫陽花もあるけれど、株がたくさんというわけでもない。ところがその芍薬園の奥のちょっと紫陽花のある近くに、関東、中部、四国、九州、等々の地方別に「ヤマアジサイ」が植えられている花壇があった。せいぜい50cmくらいの高さの低木が多かった。ちょっと調べるとサワアジサイとも呼ぶらしく、山や沢に自生している自然種ということなのだろうか。

 ほかにもユリとか菖蒲や、残っていた薔薇の写真も撮りましたが、今日のところはヤマアジサイを載せておきます。

 

 

 

HOSONO HOUSE

HOSONO HOUSE

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模型のような実景

 湘南新宿ラインの車窓から撮った五反田あたりの交差点。たまたま通過した瞬間、こんな風景が写りました。なにがそう見せるのかわからないけれど、この歩いている人たちが、時間が凍結されてこの身体の姿勢のままここに固定されているように感じてしまった。写真なんだから動いている一瞬を停めてしまうので、それは当たり前なんだろうが、そういうのではなく、そもそもこれは停止している風景で、まぁ実寸大の模型のような、それをじっくり物撮りしたように、撮った私がそんな風に言うのも変だけれど、でもまぁ、そう見えるのです。窓ガラスが少し曇っていて写真がソフトになっていることが関係するのか。もしかすると写っているほとんどの人が一人で行動していて、それが実に偶然の奇跡で実景として見たことがない印象なんじゃないか。例えば画面左側の大股で歩いている黒いスーツを着た男や、横断歩道の真ん中より少しだけ左にいて右に向かっているスキンヘッドの男は、なぜだか模型のように見える。

 トーマス・デマンドは事件現場や事故現場を実物大模型で再現して、そこを写真に撮っているんだった。と上の文章を書いていてふと思い出した。その行為の目的や意味を写真家自身がなにか発信したり、あるいは評論家のような人が解説したりしているのを、過去に読んだかもしれないが、なにも覚えてないです。だからそういう発信や解説があるのかないのかもわからない。なのででたらめかもしれないが、最終展示作品は写真ではあっても、その写真を撮るまでに実物大模型を再現することで、その事件や事故のことを様々な視点からより深く理解しようとしているのかもしれないな。

 例えば、この五反田の交差点を取り囲んで10°おきに36台のデジタルカメラが交差点に向けられている。それらのデータを使って計算することで、あとからどこからの視点でもここを見ることは出来る。あるいはこの一人一人含めた交差点の構成要素を3Dプリンターで実物大に作ることも出来る(?そんな巨大な立体物を作れる3Dプリンターがあるのかどうかは知らないが)。トーマス・デマンドは実物大模型を作るときに紙で作る等の材質の制限があったような気もするが(すいません、調べ直していません)、最新のそういう立体情報取得と3Dプリンターを使えば、行為として類似したことを(精神的には類似していないかも)、紙工作ではなく、効率的に革新できる。だけどそんな「便利」を行使すると作品行為の目的や意味すらひっくり返されるなら、それは余計なお世話であり良きことではない。

 小学校の高学年の頃だったと思うが、当時はグループサウンズが流行っていて、とくに人気のあったザ・タイガースとかザ・スパイダースは、ビートルズの映画を真似て?主演映画が作られた。記憶があいまいだが、そういう映画のなかに、自分だけが行動出来て、世界はある一瞬のまま固まってしまっていて、それが溶けるまでのあいだになにかのミッションを果たせば、例えば恋が実るとかかな、そんなファンタジー映画があった。あるいは筒井康隆の短編小説に主人公の時間の流れに対して周囲が遅くなり、なにからなにまでほとんど停止して見える、そういう主人公がたかをくくって走っている国道の車のあいだで眠ってしまうというのがあった気がするが、筒井康隆ではなかったかもしれない。そんな風に「止まった実景」のようでその止まった中を湘南新宿ラインだけが私を乗せて突っ走っている、そんな感じを写真から受ける。だけどこれは模型ではないし時間が停まっているわけでもないし、模型を作ったりもしていないし、ただ撮っただけの写真です。

 

 

中華街からの帰り道

 久しぶりに横浜中華街で夕食を食べた。コロナ前には年に一度くらいは行っていただろうか。2005年か2006年頃に、当時参加していた須田一政写真塾のグループ展で、横浜中華街で撮った写真で展示をする、というのがあり、6×6のミノルタオートコード(二眼レフフイルムカメラ)と、当時まだ300万画素だったデジタルカメラを持って何回か中華街通いをしたこともあった。あるいは配属されていた会社の部署が東横線都立大学駅にあった頃に、なぜだか同僚としょっちゅう横浜中華街へ行っていた気がする。安記、桃源屯、大福林、海南飯店、安楽園、山東海員閣、等々、当時行った店は、大型有名店ではなくてこんな風な小さな店を選んでいたと思う。都立大学からは30分くらいはかかるだろうから、特に近かったわけでもないけれど、例えば中華街B級グルメ探訪のような本があって中華街へ行くのが流行っていたんじゃないかな。今もある店もあればもう閉店した店もあるようだ。もっと前、1980年代中頃に、親戚の会食が中華街のとある店で行われたときに、ちょうど日本シリーズのシーズンで、私は当時応援していた広島カープが勝ったか負けたかが気になり、ときどき小さな携帯ラジオで途中経過を聴いたものだった。たしか北別府投手が好投してもしても、日本シリーズでは勝ちが付かない、そんな試合だった。さらにさらに昔、初めて父に連れられて中華街に来たときに「この町は昼間の人通りが多い時間帯は良いが、そうでない夜や深夜や早朝には近寄るな」と父に言われたことがあった。父はこの町をどう捉えていたのだろうか?あるいは本当にその頃、1960年代だと思う、中華街は物騒な町だったのだろうか。コロナ禍もあり、3年?4年?くらい中華街には行っていなかったが、一見きらびやかなネオンサインを掲げた料理店がずらーっと並ぶのは変わらなくても、けっこう店が様変わりしているのだった。

 昔のイメージでは不愛想でつっけんどんな店員さん(大抵は中国または台湾人の女性)がメニューを持ってきて、すぐに注文を聞くから「ちょっと待って考えるから」と言うと、露骨にめんどうな顔をされたりした(もちろんごく一部の店のことだっただろう)。注文が決まって、すいませーん、って店員を呼ぶと、今度はすぐに聞きにこなかったり。頼むと、もう追加注文などするなよってことだったのか、メニューはすぐに持って行ってしまいテーブルに残してくれない。料理は量が多く、脂ぎった炒め物は胃もたれしそうに見えたが、いざ食べるととても美味しくて、ついつい食べ過ぎるのだった。あるいは頃合いを見て次の料理を持ってくるなんて発想はなくて、あっという間に出来た順に頼んだものが置かれた。今日食べたコースはヘルシーでさっぱり薄味で、どの料理も美味しくて、料理の出されるタイミングも絶妙で、4年か5年ぶりであった元同僚と、ゆっくりおよそ2時間半、食べながらおしゃべりが出来た。今日食べた店は菜香新館。

 帰り道は中華街の大通りを抜けてから、だんだん閑散としてくる道をJR石川町駅まで歩く。これも何十年も前からそうして帰って来た。この繁華街から「だんだん」店が減り人通りも減り暗くなっていき、満腹で宴が終わり、解散してあとは帰るだけという気分。それは今日も、むかしと全然変わらない。この夜風の吹く、石川町駅までの道が、宴の余韻と少しの寂しさを纏った夜へのプレリュードなのだった。それがむかしと全然変わらないのがいいな。途中ウインドジャマーというライブをやるジャズ喫茶/バーの前を通る。いままで三回くらいはその店に入り、カクテルを飲みながら、ジャズのスタンダードを聴いたことがある。ウインドジャマーは船の種類をさすらしい。

 写真はその駅までの帰り道で撮りました。ただのタクシー。

 

朝のスタバ

 写真は5年くらい前に、もっと前かな、中目黒駅あたりで撮った夜の写真だけど、以降は朝の風景です。

 朝の駅前のスターバックスコーヒー。壁沿いの長く低いベンチシート席に座り、ティーラテ・アールグレイを飲んでいる。眼の前に高めの椅子5個が囲んだ大テーブルがあり、白いパンツを履いた若い女性が座っている、その後ろ姿が見える。左足のスリップオンの黒い革靴は踵を脱いで、爪先に引っ掛けて、ときどき靴がゆらゆらと揺すられる。
 駅までは路線バスで出てきた。ほんの十分くらいの乗車時間。それでも、外を見ていると紫陽花の花が咲いているのが見えたり、列をなした小学生がTシャツ一枚の薄着からパーカーを羽織った厚着まで色んな色の色んな服装で歩いていくのが見える。彼らの列は全体には列だけれどその中のこの動きは少し自由気ままで走ったり止まったり、後ろ向きに歩いたりだ。
 途中のバス停から乗ってきた髪の白い、すっと背の高い男は、席につくなりスマホを操作する。私の席から男のスマホの画面が見えている。スポティファイで音楽を流しているらしく歌詞がスクロールして画面の上に動いている。だけど私から見える男の右耳にイヤホンは見当たらない。男は右足でリズムを取っている。聴いている音楽に合わせている。もちろん音が外に漏れているわけではない。だから左耳だけにイヤホンが付けられてるのだろうと推測する。確認しないままバスを降りてしまった。
 そういえば最近は誰かのイヤホンからの音漏れが気になったことがないな。でもそれは満員電車での通勤をしなくなったからかもしれない。誰かがイライラと貧乏ゆすりをしてるのを見たことも減った。リアルな対面の会議が減っただけなのか。
 スタバで流れる曲を知らない。誰かが作り、歌った、知らない曲。アコギを抑えるコードが変わるときに指が弦を滑るキュッという音がする。こんなのは楽譜にない、ノイズだけど、あっても良いノイズで、何十年前の演奏にも今の演奏でも、ときどき聞こえる。このノイズに名前があるのだろうか。デジタル技術で消音したりしなくて良いと思う。人の指がフレットを滑るのがわかってほっとする。そして流れてくる知らない歌が心地よいが、なんだかみんなが無害で平和な感じ。
 知ってる曲が流れ始めた。私が中学生の頃にヒットしていた、雨をみたかい、が流れる。これはクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルだっけ?CCRだね。
 あぁ、指がギターを滑るノイズのことからキース・ジャレットが即興演奏をしながら出す唸るような声のことを思い出してしまったな。あれは、嫌という人もいたし、良いという人もいたが、どっちでもいい感じだ。
 雨をみたかい、のあとは優しい囁くような歌い方の曲が続く。複雑なコードでふわふわと雲間を漂う天女が憂いてるような。天女だって憂いたり焦ったり嫌気がさしたりするんじゃないか。か細い声だけれど、ちょっとジョニ・ミッチェルみたいな曲。
 スタバの客の服は黒やグレーやベージュや紺色。私のきている紺よりは明るい青のカーディガンがなんとこの場で一番カラフルなのかな!?
 平日の朝の風景。

うしみつどきに起きてしまった

 朝、3時台に目が覚めてしまった。もう一度眠れば良いのに、目を閉じても眠りがやってこなかった。4時には眠るのをあきらめて、部屋の電灯を付けて、ベッドの上に胡坐をかいて座って、スマホを付けてみる。深夜、誰かからメールやラインが届いていることもない。スマホを置いて読みかけの文庫本を手にしたが、読書に没頭もできなかった。それなのにふと気が付くと長針がずいぶん進んでいる。のろのろと起きだして、洗面し髭剃りし歯を磨いた。いつもより10分ほど早い5時10分に自家用車で会社に向けて出発した。子供の頃に妖怪ブームの年があった。たぶん11歳か12歳だった。二本立ての地方の映画館に友だちと二人で日曜日、子供向けの妖怪映画二本立てを観に行ったりした。草木も眠る丑三つ時、と言う言葉があることをそのときに知って、いつかはその丑三つ時に起きていたいな、と思ったが、思うだけでそんな時刻には眠っていた。今朝はそんな丑三つ時に起きたってことだろうか。

 あるとき丑三つ時に、急に起きてしまい、誰かが玄関に訪ねて来ているという確信があって、寝ぼけたまま玄関に行ってドアを開けたが夜風が入っただけで誰もいなかった。おかしいなぁ・・・ふとそこに来ていたのは父のような気がした。もしかして父になにかあったんじゃないか?翌朝、実家に電話をしてみた。父はいつもと同様に元気に暮らしていて、それがわかったので、深夜に家に来たように感じたから胸騒ぎがして電話をした、なんてことは言わなかった。父は2001年に亡くなったが、その三年か四年前のことだった。

 夢の中で自分は素晴らしい美メロの曲を思いついていた。そのあとに起きても、頭のなかにはメロディーが残っていたから、あわててそのメロディを譜面にしたことがあった。あれも丑三つ時だった。夢の中でも丑三つ時に譜面にしたときまでも、それは素晴らしい曲だったが、朝が来て譜面を見たら、もう光り輝く美メロではなく、なんだかよくわからない曲だった。

 深夜に起きると、いまこの日本で関東で東京か神奈川で、同時に起きているのは誰だ?と思う。起きてますか?とラインで誰かに問いかけるわけにも行かないが。寂しさや不安を抱えて眠れない人もいるだろうか。話せばお互い落ち着くものなのに。誰かが訪ねて来た気がして起きて、玄関の小さな窓から外を伺い見る人もいるかもしれない。何かの手段で、会ったこともない誰かとスマホで匿名のやりとりが出来るとする。はじめまして、あなたはなんでこんな時刻に起きているの?いや、そもそもこれが私の毎日の規則正しい時間割で、これからが眠る時刻なのです。なぜなら職業は・・・。あまり楽しい会話にはなりそうもない。

 銀河鉄道を走って行く蒸気機関車のドラフトと汽笛の音を深夜に聞いたこともある。いや、それが銀河鉄道だったのかどうかはわからない。家のいちばん近くに走っている鉄道は東海道線で、当然電化されていて蒸気機関車などイベントですら走らない場所だ。だけど眠れない夜にそんな音が聞こえたのだ。

 そんなわけで、今日は会社でずっと眠かった。