引き続き写真について


 たぶん15年〜20年くらいまえの写真。中華街で飲み会があって、そのあと横浜スタジアム近くにあったジュークボックスのあったバーに寄ったときの写真だと思う。一緒にいたNくんが硬貨を持ってジュークボックスに行き、そのあと彼が選んだドアーズか何かが流れたような。今はこんな写真は「撮らない」というのか「撮れない」というのか「撮ろうと思わない」というのか・・・

 写真について(写真とは何か?)は以前からよく考えていたが、最近、特にそればかり考えているのには理由があって、それはやはり写真を趣味にしている若い友だちYTくんからある日メールが来たことに起因する。(起因?・・・なんかずいぶん大袈裟な文章だなあ)
 YTくんは、先日東京都写真美術館で行なわれた写真新世紀2008の公開審査と同時に開催された大森克己野口里佳の対談に彼の友人たちを連れて行った。YTくん自身は大森克己の「山桜のスライド」に感動を覚えたのだが、一緒に行ったやはり写真好きを自認する彼の友人たちは「山桜のスライド」に対して否定的だったらしい。
「わからなかった」「同じような写真ばっかりだった」「うちの裏山と同じじゃん」といった感想が彼の友人たちから出たらしい。その感じ方の違いにギャップを感じたとYTくんは言っている。
 それではYTくん自身はどこに感動したかと言うと、(山桜のスライドには)『自分の記憶を呼び覚ます何かがあり、そのことが感情の琴線に触れた』と分析している。
 私は「山桜のスライド」を見ていないから、その写真を見て自分がどう感じるかは判らない。ただ「うちの裏山と同じ」と言った人にとっての写真の「うまい」か「下手」か、あるいは「いい」か「悪い」かの基準は、写真に写っているものの特殊性に価値があるかどうかということだろう。きれいな風景で、簡単にその場所には行けなくて、あるいは珍しい気象条件でないと現れなくて、季節条件や一日のうちの時間条件もうまく合致しないと出会えなくて・・・そういう「滅多に見ることができない」ということと、その滅多に見ることが出来ないと共にその風景が驚異を伴う「美しさ」を持っている、そういう特殊性を持った風景写真は風景そのものの持つパワーが圧倒的にあるのだから、写真を見るほうにも判り易いし、驚き易いし、感動しやすいだろう。それそれで原初的な最も簡単で普遍的な写真の効果であるから、そういう写真を求めていることは間違ってはいない。そしてそういう見方だけしか知らない人が、それに合わない(その見方では価値を見出せない)写真に出会えば「うちの裏山と同じじゃん」とか「同じような写真ばっかりだった」としか言えないのだろう。
 しかしこういう一般的にすぐに「きれい」とか「うまい」とか評される風景写真が出来上がるときにそこに貢献しているのは第一に自然であり(誰もがそこに行ければ写真は必要とされない)、次にはその場所へその時間に行くことができたというカメラマンの努力と運であり、最後にカメラ操作を誤らなかったという技術であって、そこに芸術性は何もないのではないか。
 というようなことを私は音楽とか文学に置き換えると判り易くならないか?と考えながら、YTくんに返信した。
 というようなことがあったのが最近また「写真とは何か」について考えてばかりになってしまった発端だった。
 ところで話がちょっと横道にそれてしまうが、上に書いた「風景そのものの持つパワーが圧倒的」ということも人間のエゴに基づく基準だと思う。フォークグループ「風」(かぐや姫の正やんがかぐや姫解散後に作ったグループ)の「ささやかなこの人生」という曲の歌詞に♪花びらが散ったあとの桜がとても冷たくされるように、誰にもこころの片隅に見せたくはないものがあるよね♪というのがある。花びらが散ったあとの桜というのは、心に秘めて他人にはとても明かせない「もの」と似ていると言っているのだろう。他人には言えない「苦労」とか、他人には言えない「傷」とか、そういうのは「花が散った桜」に似て人さまに見せるべきものでなく隠すべきものになっているということを前提に書かれているってことか。「花が散った桜」と「満開の桜」を比べて後者は人間にとっては美しく、前者は注目に値しない、というのは桜にとってはどうでもいいことで彼等は人間のそんな価値付けはいい迷惑で脈々と生をつないでいる。とこう書くと、人間のエゴに基づくと書いたけれど、動物としての人間に生じている「満開の桜」だけを美しいと判断する気持ちは生物学的にどうしてそうなのか?と、これをずっと書いていくと、またぞろいつまでたっても終わらないので、この件はひとまずこれでおしまいにして・・・。
 12/10付けのブログに書いた、別の個を追おうとして、あるいは決まりきった作法にのっとって、同じ(ような)写真を撮っていたら、自己は現れず無名性の高い写真を量産するだけではないか、ということと、しかしそれでもそこには自己の違いが現れてしまうから、そうともいえないではないか、ということについてだが、実は書きながら私にはなんとなく今自分が考えられるのはせいぜいこの程度が一杯一杯だというあたりの現時点で折り合いをつける答えに気付いてしまっている感がある。
 独自の曲調や演奏スタイルを持っているジャズミュージシャンの来歴を見ると、ちゃんと基礎から習い始めて音楽理論も学んでその上である日インプロヴィゼーションに惹かれてクラシックからジャズに「転向」するというような人がいる一方で、全く独学で演奏手法を学んだり編み出したりした行き付く先に、聴衆を魅了する演奏に到達している人もいるようだ。例えばウェスモンゴメリーについて今日時点のウィキペディアから引用すると「親指1本でピッキングを行なうのが最大の特徴。 チャーリー・クリスチャンによって初めてエレキ・ギターでの単音弾きのソロがジャズに持ち込まれたわけだが、ウェスはそのスタイルを大幅に進化・成熟させて、ジャズ・ギターの礎を築き上げた。それまでアクセント的に使われるだけだったオクターブ奏法を頻用しジャズ・ギターの代名詞にまで引き上げ、シングル・ノートはもちろんのこと、ダイナミックなコード奏法を織り交ぜたスタイルは、ウォームながらドライヴ感のある音色とともに、現在までのジャズ・ギター・シーンに決定的な影響を与えている。」とあるが、彼は既存の音楽論を学んだ先にこの新しい奏法を生み出したのではなく独学でそこに到達したのではなかったか。間違っていたらすいません。
 いきなり音楽の例を出してしまったが、写真も同じで私が書いてきた「無名性の高い」「定まった作法にしたがった」写真を撮り続けた(音楽で言えばひたすらバイエルを練習し続けたみたいなことなのかなあ?)先に、ある日何かの天啓があるのか、そんなものはないけれどいつの間にか他人から見たときに違った何かが生まれていることになっているのか、いずれにしてもその人らしい写真が開眼することがあるに違いないと思う。また一方で、そういう作法とかを嫌って、無手勝流で写真を撮っているなかからいつか新しい何かに到達するという場合もあるのだろうな。
 そしてどちらの道筋にも共通に言えることは、やっぱり大量に撮った中からしかそういう写真を見出していくことは難しいということではないか。たぶんシンガーソングライターにしても小説家にしても、レベルの高い作品を生み出すまでには吐いて捨てるほどの習作というのか、そういうものがあるのだろう。写真だって同じだろう。
 保坂和志著「小説、世界の奏でる音楽」に、野球選手が才能だけでやっていけるのは中学高校くらいまでで練習しなければプロにはなれない。プロ選手の素振り五百回に相当することは、小説家にとっては「小説について考えること」と書いている。プロかアマかはさておいて、作品としての写真(多くの写真コンテストやサロン写真で評価される無名性の高い作品のことではない)を撮るためには写真を大量に撮って、撮ったものをみて考えて、また撮る、ということを継続することが最低条件なのだと思う。保坂和志は「小説について考える」と書いているが、小島信夫は「大量に書く」ことがいいことと生前何かに書いていた。
 私は写真論に相当する本をそれほどには読んでいないし、読んでもよく理解できないことも多い。系統だってそういう芸術論とか映像史とかを学んでいる方々からすると、ここに書いているようなことは稚拙で低レベルな議論なのだろうなあ。。。
 書きながら判ったのは、少なくとも私は「作法どおり」ゆえに「いい」と言われてもあんまり嬉しくないということと、それなのに自分自身がそういうシャッターチャンスに遭遇すると「作法どおり」に撮ろうとしているのみならず、しかも自分で「いい」とも思ってしまって、その相反する二面があって、そこである悩み、というより考えることに至っているのだろうということだ。
 ところで「作法」に縛られない自己の表現みたいなことを思って書いてみたが、そう書くとすごく大それたこと、なにかとてつもない新規性にとんだ技に裏打ちされた全く新しい写真でないとダメなのかと思ってしまう人がいるかもしれないが、実はそんなことではない。大量に見せられた中から、見た人の心にわいてくる感じに独特な何かの色合いを立ち上がらせるといったことだろう。また音楽に例えてしまうが、日本のミュージシャンで言えば「ユーミンの曲調」「桑田の曲調」「たくろうの曲調」「中島みゆきの曲調」「ミスチルの曲調」「ゆずの曲調」といったそれぞれのらしさは一曲聴いただけでは判らないが繰り返し聞くことと、何曲も聞くことで判ってくる。そんな例より、私は数年前にモーニング娘。が流行していたときに辻希美加護亜依の区別がつかなかった。ところがしばらくすると差がわかって、わかってしまうとなんで同じに見えていたのかの方が不思議になった。最近もフジテレビの生野陽子というアナウンサーと松尾翠というアナウンサーが同じに見えていたがこれもだんだん区別できるようになってきた。という例のほうがいいか・・・あれ?よくないか。
 独自性を打ち出すための「技法」ということも、下手をすると本末転倒になりかねないような感じがあって胡散臭い。
 とまた書き出すと止まらないので12/12(を使って12/13に書いているのだが)はここまでとします。