どっちが? / 鎌倉


 昨日使った写真のソフト感を加えたりトーンカーヴ調整をする前の段階。こっちの方がいいだろうか?日によって気分が変わる。


 午後から鎌倉へ。15:30、神奈川県立近代美術館鎌倉館で開催中の伊庭靖子展〜まばゆさの在処〜会場で林林さんとお友達のMさんと合流。伊庭展のフライヤーより・・・「伊庭靖子は、果物、プリン、クッション、器といった身近なものを自然光のもとで自ら撮影し、その写真のイメージを素材にして絵画へと転換する作業を続けています。(中略)ただ物や写真を見るよりも、実感的に私たちの体の中に沁み込んでくるといってもいいかもしれません。それぞれの物質の微妙な質の違いを繊細この上ない感覚で捉えた伊庭の絵画は、人間の感性に独自の働きかけを引き起こします。」写真をもとに絵画作品を作るというと(私のように特別に美術について学んでいない者にとっては)ゲルハルト・リヒターを想起してしまうのだが、リヒターがデフォーカスした写真のような絵画を作ることとはその意図は全然違うのだろうな。これらの絵画作品の元となった写真そのものを同じ大きさに引き伸ばして飾ったらどういうことになるのだろう?写真としてみたらこれほどに様々な思いを起させる力はないように思うのだが、しかし、様々な思いと言うこと自体、ここに引用したような製作過程を知らないでいると起きないのかもしれない。解説を読むことがいいのか悪いのかは注意を要する・・・かも。あるいは、作家が目を向けたプリンや果物やゼリーの接写ということに写真家は注目をしてこなかったかもしれないし、器の写真はそれこそ図録とかカタログのためにしか撮影されず、作品としての被写体の常識外なのかもしれない。そういう被写体を画家は掘り起こす力があるとか、あるいは写真から絵画を起すということで、新たな価値感を呼び起こせる被写体が何であるかを画家のみが知っているのかもしれない。こういう作品をつきつけられると、写真家など画家の掌で遊んでいるに過ぎないような気分にもなってしまう。
 あるいは、これらの絵画には、リアルでなはく写真を介した証拠として、デフォーカスのボケ味(点像のぼけ)があって、しかも周辺のぼけは口径食で楕円になっていたり、あるいはフイルム(もしくはイメージセンサー)のラチチュードを越えたところの画像は白く飛んでいるなどしている。そしてそういうところに出ている「写真らしさ」、あるいは接写によって拡大して部分を見ることができるということ自体が「写真らしさ」でもあるのだが、そういう「写真らしさ」を見るほうは周知している。そして作家は、意識的か無意識か不明だが、「写真らしさ」が人類にとって既知であることを前提としてこの作品を作っているのだろう。そう思うと、作品と言うものの持つ同時代性に思い至らずにはいられない。
 昨日の本城直希の写真がミニチュアに見せるフェイクを武器にしているとしたら、従来の固定概念を壊す行為に何か新しい表現の目指すところ、というより、そうならざるを得ない時代性があるのかもしれない。
 などとつらつらと考えるわけだが、いずれにしても作品の持つ美しさが大前提にあるので、伊庭展はきわめて心地よい空間だった。

 伊庭展のあとカフェロンディーノで珈琲を飲む。次いで古書公文堂まで歩く。宮迫千鶴著「《女性原理》と「写真」」を購入。500円。

 カラー写真は御成商店街の造花。