横浜に映画を観に行く

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「ある画家の数奇な運命」を見に、久々に映画館に行く。ゲルハルト・リヒターを描いた映画(らしい)なのだが本人とは本名は出さないということになっているらしい。そうなると、どこまでが本当の話でどこからがフィクションなのかは判らない。上映時間3時間越えと言うことも知らないままに観に行った。そもそもどうしてこの映画のことを知ったのか。昨晩か朝にスマホでいろんな記事を拾い読みしているうちに、だったっけかな?

ゲルハルト・リヒターの展示をはじめてちゃんと見たのは金沢の21世紀美術館にはじめて行ったときに偶然その展示をやっていたときで、あれは90年代かな、00年に入っていたのかな。一人で金沢に旅行に行き、いろいろと行きたいところをリストアップしてあって、美術館は長くても1時間と決めていたのだが、あまりに展示が面白くて、もうその後の予定している場所には行かなくていいやと腹を決めて、ずっと展示を見ていた。そのときに自分が惹かれた理由はなんだったのだろうか?言葉に出来ない、出来たとしても「雰囲気がいい」とか「かっこいい」とか「きれい」とか、そんなことであれば言葉にしていないのと同じレベルのところの話で、そこを言葉に置き換えることが重要な気もするが、というかそれが(言葉で理解することが)ちゃんと作品を鑑賞を出来るか出来ないかのために大事なことで、そういうことに意識的であろうとしていたかもしれない、少し前まで。だからこのブログを遡って21世紀美術館ゲルハルト・リヒターの展示を見た日のことがあればなにか書いているのではないか。あるいはブログ以前にノートに手書きで日記を書いていたから、そのページをめくると同様にその感じたことや理由を言葉にしているかもしれない。だけど、ここ数年、思うのは言葉は言葉で掬ったところだけは明確化・・・と同時に縛りになっていて、結局のところは、言葉に出来ないこと、上記の「雰囲気がいい」とか「かっこいい」とか「きれい」という最初の言葉に本当はなっていない感覚が重要で、それでいい、言葉に出来なくてもまったく問題ない、と言うことの方が正解なのではないか、と思うようになってきた。したがって、評論家の方が鑑賞者を代表して感覚を説明しても空々しいのかもしれないな。あるいはそれにより鑑賞者は迷惑をこうむることすらあるかもしれないな。見方を限定されるから。どう見ていいかまったく不明のときには道標になって便利かもしれないけれど、あとは自由に見たいというときには邪魔になるような感じ。

映画を観るとゲルハルト・リヒターと思われる画家は幼少期にトラウマになってしまいかねないとんでもない悲しみや怒りを覚え、生まれながらの画才やものを見るフラットな感覚にプラスして、そこから冷徹な観察眼を身に着け、その後(映画では)ベルリンの美術大学で教授のサジェスチョンを受けて、自分に問うことから作品を生み出す術のようなことを覚えていき開花する。3時間でも長く感じないすさまじい人生の時間を越してきている。というか私のような「戦争を知らない子供たち」世代の一世代上の日本人はみな、こういうすさまじい時代を生きてきたのだろうし、今現在も世界を見回せば、そういう理不尽と悲しみと怒りのなかに生きている人はたくさんいる。

だけど、こうして書いていて思うのは、ゲルハルト・リヒターと「思われる」画家の映画ではあるものの、ゲルハルト・リヒターを描いたとは明示されない。この明示されないことが実は大変に重要なことなのかもしれない。それが高い確率で予見されたとしてもご本人が実名は使わせないことがこの映画のフィクションであることを保たたせている。するとこれはやはり数奇な運命に翻弄されながらも人生を切り開いた人のフィクションであり、だから鑑賞者は、これからもリヒターの作品を美術館で見るときに、この映画で示されたことに、あまり縛られない。ちょっとは縛られるかもしれないけれど。それが大事なことなのだろう。

あの写真をベースにそれをぼかしたような作品は、幼いことの幸せの記憶が、その後の時間と望まぬ事件等を経て、すでに遠いこととしての消えかかったことへの哀惜なのか、消えないことへの決意なのか。

そう言うことを映画を観ると考えてしまうのが、だから上記のように、それがいいことなのかどうかが判らないです。

でも例えば日曜美術館なんかを見ていると、すべてそういうことを知らしめているんだよね。