春らしさ


(上の写真は京都府立植物園近くの高校)
 4月3日。市バスに乗り平野神社へ。曇り空。ソメイヨシノはまだ咲ききっていない。緋毛氈を敷いた板張りの花見用座敷や、折り畳み椅子を並べたスペースが桜の木が並ぶ中に設えてあるがまだ時間が早いからだろう、人は疎らにしか座っていない。晴れて暖かくなり花が一気に咲けば、その夜には盛り上がることだろう。境内にはいろいろな種類の桜があり、満開を迎えている枝垂や、真っ白で花弁が細い花を付けた木の回りにはカメラを持った人が取り囲む。携帯やコンデジを持って写真を撮る人たちは花見の光景に属している。が、三脚を持っていたり、一眼レフを構えてカメラマンベストを着た方々は光景に属していない感じだ。
 平野神社から北大路をどんどん歩く。だんだん雲がきれてやがて晴れの時間が増えてくる。くるり、の、ジュビリーの歌詞のことを考えながら歩く。歓びとは誰かが去る悲しみを胸に抱きながらあふれた一粒の雫なんだろう、と岸田繁は歌っている。喜怒哀楽の様々な感情が生きて行く中で起きる、ということは人と人のつながりの中にあることだから、悲しみも含め、即ち生きる歓びと言いたいのか。ときどきライブをやるらしいSOLECAFEがどんな店だか寄り道してみる。でも今日は家族の某とグリルハセガワで合流して昼ご飯を食べることにしてあるからSOLECAFEには入らない。緩い坂道を野球部が練習する高校のグランドを横に見ながら下る。やがて大徳寺。昨夏は工事中だったので拝観しなかった大仙院に寄る。枯れ山水の庭には白砂利を盛った円錐が二つ、並んでいる。禅の宇宙観でも現しているのかと思ったら、近くで寺の説明をしている、その内容が聞こえてきて、円錐は盛り塩だと言っている。二つの円錐の真ん中が本堂にぶつかる、即ち本堂に続く道の左右に一対浄めの塩が置かれている、ということらしい。宇宙だとかなんとか思っていた自分は京都に酔って、馬鹿になっているようだ。
 グリルハセガワでハンバーグとコロッケの定食を食べる。某はカボチャハンバーグを食べている。

 食後、川を渡りすぐの府立植物園へ。いつの間にか快晴で気温め上がった。これなら今頃、平野神社の花見座敷も満席になったことだろう。植物園の桜や人をたくさん撮る。桜だけでなく連翹やユキヤナギ辛夷木瓜も、みな咲き誇る。子供は走り回り、恋人達は寝転がり、初老の女性は楽しげに話す。彼女たちはおしゃれ。紫のスカーフやオレンジのベレー帽がきれい。

 午後6時前、京極食堂奈於に入る。故あって親父さんに初対面ながら御礼の挨拶。バイトのS君にもお会いしなければならない。が待ち人は近くの美容院でカットモデル役に出ているらしく、じきに戻るでしょうという親父さんの予測と違いなかなかやってこない。結局九時過ぎまでカウンターにて長居してしまう。S君は8時半に戻りやっと会えた。ビール、黒糖焼酎水割り。白子、ポテトサラダ、揚げ出し豆腐、チキンカツ、豚角煮。満腹。店のすぐまえにあるホテルね客が一人、私の隣に来て、帰り、入れ違いにまた一人来る。話を聞くと、国際会館で産婦人科医の学会をやっているらしく、前の客も後の客も産婦人科医でいらっしゃった。医師不足のことやら麻酔医のことやら研究環境のことやら、内情を知って、へぇいろいろあるなぁと思うのだった。
 京極食堂奈於にいる途中に須田塾のKSさんから電話が入る。電話に出るために店から外に出る。するといつのまにかすっかり寒くなり、風も強い。


グリルハセガワにて食べたもの


夜の街を歩いていたら、ボブ・ディランのジャケット写真を使った看板を見つけた。
一昨日にエレファント・ファクトリーでディランがかかっていた。今日はこの看板に出会う。