京都 メタセコイアに参加


 亞林さんが主宰し、京都の学生数名が参加している写真ワークショップメタセコイアに、3月に引き続きゲスト参加するために、朝6時過ぎに茅ヶ崎を出るくだり電車で小田原へ、そこから小田原停車のひかり号で、京都9時過ぎに着く。相変わらず勤続30年で会社からもらえる特別休暇中の身です(5/30まで休みです)。今日は快晴も、九州旅行同様、明日以降は雨に降られる予報。私は雨男だったろうか?京都在住のNさん「岬さんの来るときはいつも雨ですね」とおっしゃるから、そうなのかもしれない。あまり自覚ないけど。
(3月メタセコイアのブログはhttp://d.hatena.ne.jp/misaki-taku/20100319です)
 メタセコイア例会は14時から進々堂京大前店にて予定されている。それまでの時間を使って、まず東福寺雪舟石庭がある芬陀院に寄る。ここの雪舟庭園はもちろん良いが、私は東の小さな庭が好きで、しょっちゅう行く。
 ところで、観光地で例えばこういう庭を見物するときに、音楽をiPODなどで聞きつつ時間を過ごすと言うのは邪道なのだろうか?何年か前にこの庭を前にしてコリーン(http://www.colleenplays.org/HOME%20BIRDS/home_birds.htm)という人のCDを聞いてみたら、とても良かったことがあった。庭を楽しむには視覚だけでなく、気温や湿度や風や、遠くから聞こえてくる街のノイズや、木々の葉擦れの音や、そういうその現在が連続している中の五感で感じる全部を含めた庭なのだ、と言われればそのとおりだとも思うのだが、では音楽を聴くのが邪道と言われても(誰が言うのかは知らないが)、それはそれですごく良かったのだからしょうがないではないか。もしかしたらそれは庭を楽しむということより、音楽を楽しむための環境として適していたみたいなことかもしれないけど。
 ということもあって、今回、そのときの「良さ」を再現できるかと思い、iPODで同じアルバムを再生しつつ庭を見ていた。結果としては、別に悪くはないのだが、いまここでこの音楽を聴くことの必然性みたいなことは特別に感じなかった。以前に良かったと思ったときに比べると素っ気無い。では数年前のあの「良さ」と何が違うのか?自分の側の問題なのか?あるいはそこの環境、例えば今日は他のお客さんが誰一人もいないとか、今日は心地良い気候だとか、そういうことの微妙な条件の差の集積の結果なのか。
 そんな理由など判るわけないのだが・・・
 芬陀院で私が携帯電話のメモ帳に書いた(打った)メモ
「竹を渡る風、クロアゲハ、雀、雀は次に渡る枝をどう決めるのか、亀は見えた、緑は変わり石は不変、緑の変化は実はすごい速度、ピアニカの蛙の歌、風に乗ってかすかに聞こえる音とは?」

 亀は見えた、と書いたのは、雪舟庭園の亀島の石組みを眺めていて、はじめて亀の形がわかった気がした、ということです。

 東福寺から祇園四条駅へ。コインロッカーに荷物を入れてから、散歩を開始。古川商店街の喫茶「六花」が「カフェッ茶」という店になっている。珈琲を飲んでいく。六花の珈琲は絶品だったが、今度の店も美味しい。しかしこんな記憶にある「珈琲が絶品だった」なんて言うのも、本当に味のみを評価しているわけではなくて、上記のコリーンの音楽をどう感じたかと同様、様々な要因が絡み合っての絶対ではない相対的な主観なのだけれど。

 京都市動物園の北にある「岡北」に行ってみる。列が出来ていて驚いた(岡北の一軒となりの店の方はもっと長い列だった)。前回京都に来たときにちょうど昼時になったのと急に雨が降り出したことが重なって、たまたまそこにあったうどん屋に入り、きつねうどんを食べたらなんだかずいぶんと美味しかったこともあり、今回は当初から京都に行ったらうどんを食べようと思っていて、何かの本に載っていた岡北の場所を覚えておいたのだった。
 岡北のうどんは店の店内の印象もあいまって上品に美味しい感じでありました。
 しかし上記の降りだした雨を避けるために、行きあがりばったりで入った店で食べたうどんとは違う。
 これはもうこちらの状況の大差なのだ。例えばコンサートに行って、そのアーティストの演奏をちゃんと聞いて「良かったなあ」と思う大満足もあるけれど、自分の過去からの時間の中で様々なエピソードやらをまとわりつかせている個のものになった曲が、不意に街中で、例えば赤信号で停められているときにすぐ目の前を通っていった車のカーラジオから聞こえてきたりすると、それが曲の断片ではあっても圧倒的に心に働きかけてきて記憶を呼び覚まされたり妄想の始まりになったりして、コンサートでちゃんと聞く以上に自分への影響が大きい場合がある。
 で、通りすがりに入った店が後者の車のカーラジオみたいなことで、岡北に意志をもって食べに行ったことはコンサートみたいなことなのだろう。あれ?違う?

 それで、芬陀院の庭を見るときに「再現」として以前感じ入ったコリーンの音楽をそこで再生することを、事前に計画などして「実行」しても、以前と同じ驚きなど感じるはずがないのである。ということをうどんを食べながら改めて思った。
 即ち、「事前に計画」することはラフであるべきで、そこに入り込んでくる偶然の出会いにこそなにか重要ななにかが発生するのだろう。

 それで14時からのメタセコイアに若干遅れて参加する。


川端通り沿いの漢方薬局のショーウィンドウ。すごいですね。