マクロ


 ちょっと訳があって、マクロ定番的写真を撮影をする必要があったので、借りてきたマクロレンズと、今日はフイルムカメラではなくDSLRをバッグに入れて家を出る。でもどこに撮りに行こうか、決められないというか、なんとかラクして済ませようと思っているから、近場でしのごうとしている自分。藤沢で降りて、長久保公園に向かって歩き始め、歩きながらどうせならもうひと駅、大船まで行って大船植物園に行った方が良かったな、などと後悔している。
 長久保公園の小さな温室には、たいして花もなく、誰も来ない。誰も来ないから、床に座りこんだりも出来て、まあ被写体はあんまりないけど、その分じっくりとマクロで花を撮ることが出来た。被写体はない、とか書いたけど、等倍撮影まで出来るから、ファインダーを覗いて見える画像は、被写界深度が極端に浅いこともあって、目で実際に見える「今そこにある花」とは全然違う。ははあ、マクロ撮影の面白さは、こういうことなんだな。と、あらためて思うが、でもこれにはまることはなさそうだな。今日はあくまで必要に迫られて。それにしても、暑い中、ぶれないように息をひそめ、マニュアルフォーカスにしてからカメラを前後に動かしつつピントが思うところに来た瞬間を見定めて、と、作業はなかなかに大変である。特に息をひそめている(撮るときには無意識に停めている)から、ふと気付くと、息が上がって苦しいのだった。
 温室のあと、ハーブ園へ移動。ラベンダー(と思われる)の花が、やや時期が早いのかもしれないが、咲いている。このハーブ園は他に誰もおらず、炎天下で暑くて、朦朧としているのだが、それでもこの場所はいつ来てもいいですね。なんでだろうか?周りには民家があって、敷地も狭くて、それでもなんかいい。人の手の入り方の具合が、適度であって、おおいに自然まかせであって、それがいいのかもしれないな。
 なんかこう庭が生きている感じなのです。
 あー、そうか、私が小学生のころによく遊んでいた、とある総合病院の敷地内にあった花壇のある広場が、ハーブはなかったにせよこんな感じで、それで私は居心地がいいのかもしれないな。

 そういえば、昨日、曇りの日、茅ヶ崎海岸まで自転車で行ってみた。ちょうど海開きの日だったのかあるいは海開きして一週間経ったのか?、海の家が出来上がって、パラソルやチェアが砂浜に並んでいるのだが、小雨がときどき混じるような曇天で、海水浴客なんかほとんどいない。あるいはそういう客も水着の上にTシャツや短パンを着たまま、子供を波打ち際で遊ばせたりしている程度である。海の家というのは、シーズン外には、大きな倉庫に分解してしまわれているらしくて、季節が来るとまた組み立てる。よって、毎年毎年同じ建物が同じ並びで出来上がる。いや、正確には何年かに一度は新しくなっているのだろうが、一斉にリニューアルするってもんでもないのだろうから、また去年と同じのが現れたという風である。
 また同じ夏が始まったな、という、最初から期待などない繰り返しの夏だな、といった感じがしていてぱっとしない。ぱっとしないところに、風に乗って、その海の家だろうか、それとも数年前に出来た砂浜に面したガラス張りの結婚式場からだろうか、ジャクソン・ブラウンの「テイク・イット・イージィー」が聞こえてきた。テイク・イット・イージィーという固有の曲という訳でなく、アコースティック・ギターとかフィドルとかスティール・ギターとかの作り出す「あ、この手の音楽ね」という一括りでとらえられて、それがこの湘南の海水浴場に流れているという状況だ。それは、まあ、ありきたりに定番なのだった。定番の気温と湿度と風景と音楽なのだった。そして、その中で感じているのは、2010年の7月のこの「定番」の現在に自分は属していなくて、例えば1980年のころから今と同じだった「定番」の懐かしい「過去」に自分は属していて、過去である現在を歩いているように感じたのだった。

 どうやら私にとっては、そう言う風に夏が始まっている。しかし、何はともあれ、夏は一番好きな季節であって、それはずっとそうでありたい。

フォー・エヴリマン

フォー・エヴリマン



 上の花の写真ではなく、例えばこの梅雨時の海水浴場の写真こそが、私が写真を撮る動機なのです。Take It Easy