東京フォト2010


 六本木ヒルズ40Fで今日まで開催中の東京フォト2010に行って来た。
 同行は家族のTと亞林さん。
 日本や海外の写真ギャラリーのブースがずらりと並び、それぞれの扱う作家作品を展示・即売している。知らない写真家が沢山、知っている写真家は少し。全てではないものの、デジタル加工が目に見えるところにも目に見えないところにもすっかり入り込んでいること。そしてやはり、被写体を作りこむこと(場面を作りこむこと)が、即ち日本語だけにその名残があるらしい「写真」の「真」は、偶然とか自然にまかせたものを受動する(但し受動の瞬間に重要性がある)だけのことからどんどん離れていって、平面に図像を作成する手段が、他の、絵画とかの手法ではなくたまたま写真だったというような作家の方法論にすぎない、たまたま写真だったという平面作品が多くあるように思えた。すなわち、写真とはここまでの枠内で作られるべきというような、一般的な、そして写真の変化に愚鈍な上で興味もないような見方から計れる写真は、当然のごとく時代遅れなのだろうな。。。で、いいのか?
 うーん、まどろっこしい書き方ですね。要するに、被写体を演出するということが当たり前になりつつあり、それこそが写真を経済サイクルに仲間入りさせる手段だった、一方で写真は真を受動的に受け止めることをやめた、極論すればそんなことを感じたのです。
 もちろんこのイベントの傾向もあるだろうから、これだけで括ってはいけないのだろうけれど。
 そうであるからこそ、きっと美術界の中での写真はその位置を確立してきている。が、いつもいつも、このブログで「定形や典型によらない新たな写真を見たい、あるいは、撮りたい」などと書いているくせに、これだけ多くの様々な、でもそういう「大枠を越えた」写真をしかも絵画にも劣らぬ大きなサイズで見せられると、なんだか白けたり辟易したり、という気分が起きるのだった。
 だから、結局は「知っている」エグルストンや森山やメイヤーウィッツや、そこに安心を見出したりしている。最新の写真を見るということも、なかなかとハードルが高いし、エネルギーがいる。いやいや、若い人には何の苦労もなく受け入れられるのだろうけれど。
 ところで「現在の日本の新進の写真家(の一部)」が持っている漂泊の気分、アンチクライマックスの気分、は、日本にいるとそれが流行であって写真界を「覆っている」ように見えるのだが、実は世界の中では少し異質なのかもしれない。その異質さは、俳句のように「引き算」の結果残った必要最小限の画面構成の提示であるかもしれず、誇ってもいいのかもしれない、などと思ったりもした。
 ということなのかな、春木麻衣子の写真が気になって、何度か繰り返し見にいった。

 写真は、そのあとに銀座を歩いたときのものです。