散瞳


 写真は9/26の午前中、茅ヶ崎市の畑にて。なんだか、この写真は、どこがそう思わせるのか判らないけど、秋に他ならない。そう感じたのだ。
 遠くから風に乗って音楽が聞こえていて、それは心地よくて、でもどうしてもそこには行きつけない。それが少し哀しいけれど、もうあきらめている。だからかすかなその音に耳を澄ませる。しかし、いくら耳を澄ましても、そのうちに音は聞こえなくなってしまう。そのときにこの光景が目の前にあれば、もう聞こえないことも納得できるだろう。そういう感じだろうか。いいんです、いいんです、フェンスが写っていようが。

 9/27、会社が終わってから眼科へ立ち寄り、先日より右目に走る黒い影が気になるので診てもらう。散瞳点眼剤を注してしばらく待っていると、だんだんと右目で見る像がぼやけてくる。十分くらいおいて三度、点眼剤を落としてから眼底カメラで撮影をした。結果は、特に問題見つからず。様子を見ましょうということになった。症状は日々減ってきているので、大丈夫だろうとは思っていたが、ちゃんと診てもらうと安心できる。
 ところで、右目の、カメラで言えば絞り装置は、散瞳剤で開放になっているから右目は「絞り優先AE」で絞りを開放に設定した状態になっている。人の目に、シャッター速度調整かISO感度調整に当たる、絞り以外の露光調整装置がどう働くのか?ともかく絞り開放になっている右目だが、まぶしくはなく、左目同様の「適正露出」になっている。適正露出ではあるけど、右目の像はひどく劣化している。眼鏡をかけていると、右目の像の限界解像度は散瞳していない通常のときと同じようで、多分視力を測ると変わらないようだった。しかし、左目の像と右目の像は明らかに右目の方がぼんやりしている。注視したところの細かいところは左目と右目で変わらないのに、全体としては右目がぼんやりしている。
 右目はカメラで言えば、フレアスポットはあるはコマ収差はあるは、むかしの単玉レンズで撮った写真みたいだった。低域のMTFが低い感じ。フォトショップで言えば、同じ像をレイヤーで二枚重ねにして、透明度を50%にして片方のレイヤーにだけガウスぼかしを数十%かけた、そういうのが右目の像だった。
 なんだ!人の目も絞りが開くと像が悪くなる傾向があるのか!と驚いた、と同時に少し可笑しかった。暗いところで瞳が開放になっているときには、この右目のようなぼけた像として見えているのだろうか?暗いから気付かないとか?それとも散瞳にともなって何か収差補正的に働く筋肉も働きを止められたのだろうか?
 それにしても瞳はいつ元に戻るのかな?まだ変です(六時間経過)。

 昨日の日曜日には表参道のユトレヒトに始めて行ってみた。それからカウブックス南青山店をのぞき、隣のドラゴンフライカフェでキャロットケーキを食べながら珈琲を飲んだ。
 ユトレヒトでは野川かさねの山の写真と、山にまつわる文章を載せた「ポケットに山を01」というZINEの写真集を購入。
 私は山のぼりなんてしたことない。だけど、ダークダックスとかが歌う♪むすめさん、よく聞けよ、山男に惚れるなよ♪という歌詞の歌に歌われるような「懐かしい」山への思いみたいなのを感じたな。「熊」みたいな山の写真(全く判らない比喩ですね)。でもそれを「懐かしい」などと書くのは実は山に登らない私の勘違いで、今も昔も山への思いは同じなのかな?そうなのだろうな。
 素敵な写真集です。