散歩の質


 質の良い散歩と質の悪い散歩があるだろうか?何か深く思索をして、そこに進行が見られたり、進行がなくても熱心に考えることが出来たりしたら良い散歩かな。あるいは、散歩のあいだにぼーっとせずに、季節のことを五感を総動員して感じ取るとしたら良い散歩なのかな。でも、一方で、何も考えずに、何も気付かずに、ぼんやりとただ歩いて、ぐるりと歩いて、帰ってくるということが大事な気もするな。散歩はどれでも良い散歩だな。強いて言えば「力の入った散歩」は避けたいものだ。ずんずんと進め進めみたいなのは。
 今日の午後、茅ヶ崎からひと駅だけ電車に乗って辻堂で降り、初めて歩く北口から少し東に行ったところから北に伸びている新町商店街というところを歩いた。それから線路の南側に移り、松下の広大な工場のあった土地の西と南をフェンスに沿って歩き、そこいらで疲れたからバスに乗って藤沢に行った。藤沢では駅の周りをうろうろし、ビックカメラインクジェットプリンターのインクと用紙を買い、それからカフェパンセで珈琲を飲みながら、昨日ブックオフで買った五木寛之著「こがね虫たちの夜」の表題作を読んだ。

 高校生から大学一年くらいまでのあいだに、五木寛之をたくさん読んだなあ。たくさん読んだその時間のうちに、何故だか名古屋の地下鉄星が丘駅のバス停留所で、バスを待ちながら五木寛之の本を読んでいる自分がいる光景が、自分の視線ではなくて自分を含む光景として記憶されている。秋の日がバスの奥まで射している。たぶんラッパ吹きが出てくる話だった。そのタイトルは何だろうか?
 私は理科系だったが、同じ大学の文学部の先輩が、
「五木はゴミ、三木卓もゴミ、読むべきは畑山なり」
と言っていて、五木寛之をたくさん読んでいることを言えなかったな。
 三十年以上ぶりに読んだ「こがね虫たちの夜」は勿論そのストーリィなんか何も覚えていなかった。いかにもそのころらしい小説だった。若いときにはコレを読んでざわざわとしたんだろうと思いますよ。
 あのころは、小説でも映画でも若い主人公は反体制的であって、自らを拓こうとして、だけど必ず挫折していて、その挫折を悲しむべきなのに何故だか挫折(大抵は主人公の死だったりする)まで含めてカッコイイと感じていたんだよね。どういう気持ちの動きだったのだろう?

 パンセのあとには世界堂に行って、二種類ほどB5の紙を買った。家に帰って、久々にその紙に写真を印刷して手作りの小写真集みたいなのを試作してみた。

 散歩のあいだに撮った写真は130枚くらいで、全部どうってことないつまらない写真に思える。それでも一枚拾いだしたのが上の写真なのだが。今日の散歩は、熱意がなかった。考えることの熱意も、周りを見る熱意も、誰かのことを観察したりコミュニケーションしたりしようとする熱意も。写真だって熱意のないまま、自分の基準に沿った光景があったら、適当にそっちにカメラを向けて、ファインダーを覗くこともあまりせずに、撮っていた。
 そういう質の悪い、あるいは質の良い、散歩なのだった。

 昨晩は23時半くらいには眠りに入ったが、4時くらいに何かの物音で目が覚めて、覚めたらトイレに行きたくなって、トイレに行ったらもう眠れなくなった。そこで中島京子著「ツアー1989」を読み進めた。
 この著者の作品は何冊か読んだが、当たり外れがあるような気がする。「ツアー1989」は面白かった。

 私が大学のときにSFマガジンに読者が書いたショートショートを応募するようなコーナーがあった(ような気がする)。よし、何か書いてやるぞ、とか思って頭を捻って、それで考え出したのが「砂漠ツアー」という話だった。1976年とかのことで私は20歳とか21歳だった。
 ひねり出したのはこんなシチュエーション。
 広大なサハラ砂漠のどこかに、一人だけ飛行機から降ろされて、サバイバルグッズはツアー会社が用意するけれど、とにかくまる二日くらいは誰にも会わずに砂漠の中で一人でいるツアーで、お手軽に孤独(らしさ)を求める現代の多忙な人々に人気を博す、なんてことを考え出したのだ。ところが・・・ってそのあとどう展開すべきか考えられずに、結局は何も書かなかったけれど。
 ツアー1989を読んでいたら、そんなことを思い出した。

ツアー1989 (集英社文庫)

ツアー1989 (集英社文庫)