絡み合う思い


 先日、三浦しをん著「木暮荘物語」を、AMAZONの古本から買って読んだ。たしか古本とは言え「きれい」な本を買ったはずだったが、読み始めてしばらくして、線が引いてあるところが現れた。
 本を読んでいて、何かそこに書いてあることに強く惹かれたり、共感したり、教わったりすると、線を引く人は多いのではないか。私はいまはそんなことはしないけれど、学生のころにはそんなことをしていた時期もあったし、線を引かないまでも、ページの端っこを折ったりしていた。
 木暮荘物語に引かれた線は、鉛筆(またはシャーペン)により、薄くさらりと引かれている。最初に見つけたときには、何かの間違いで鉛筆の先が本をなぞってしまったのかと勘違いしたくらいの「淡い」というか「ささやかな」線。
 次に不思議なのが、その線が、上に書いたような「共感」とか「教わる」とか「惹かれる」とか、そういう部分とは思えないところに引かれているということなのである。例えば
「西麻布の交差点」「飼い犬のジョンを連れて家を出た」「いまから探すのは骨が折れる」「スタンダード・プードルは、町で」「資格のためのテキストは、自室で埃をかぶっている」「目だけの生き物になり」「引っ越し屋のトラック」
なんてところに引かれているのだ。何か国語として問題のあるところなのか?とも思ったが、どうもそうではない。はて、この本に書き込みをした人は一体全体なにを基準にここに線を引いたのか?謎である。ストーリィの展開において、ここで取り上げた「西麻布」「飼い犬」「プードル」「テキスト」といった名詞の出し方に「妙」を感じたってことなのか・・・

 新宿御苑近くのPleceMのミニギャラリーでは、一昨年まで一緒にグループ展をしていた平田麻衣子氏の写真展「息をすること」を開催中。
 http://www.placem.com/
 20枚ほどの小さな展示ながら、一枚一枚の写真の持つ力のみならず、並びが素晴らしい。20枚の写真の流れで、これだけ「一人一人の上に流れる時間のはかなさ」のようなことを考えさせることを強いる、そのパワーはすごかった。「息をすること」というタイトルとあいまって、セレクトに通底する、「儚さ」と「達観」といったどちらかと言えば負の面と、それでも再挑戦を何度も何度も続けるような「強さ」と「しつこさ」、あるいは「純粋さ」といった正の面が複雑に絡み合ったものがあるから、伝わってくる。迫ってくる。
 良かったです。