消防車のいる交差点


 バスの中から東京の街の写真を撮る。この交差点に差し掛かる前に、日の射していないビルのところでシャッターを半押ししておいたまま、明るい交差点で写真を撮れば、当然のごとく露出オーバーになってしまう。要するにこれは意図に反した、というより意図せずに写った失敗写真なのだが、フォトショの自動コントラスト補正かなんかでイージーに修正するとこんな風になって、歩道が真白に飛んでいるのが面白かったりもする。(色は派手すぎ)
 しかし、写真というのは安易にこうして出来上がってしまう。あるいは、出来上がってしまったように思えるものがぽろっと出てくる。絵を描く、詩を書く、曲を作る、彫刻を刻む、等々に比べると、なんともイージーでふざけたもんだ。これを創作とか芸術とか言えるわけがない。。。のではないか?

 じゃあ、どうするのか?どうしようもなくて、とにかく撮り続けるであろう私です。

 ところで、昨日のブログで角田光代の「八日目の蝉」が面白かったことを書いて、それからはてなブログでこの小説に関して言及している方の記事をいくつか読みながら思ったのだが、私がこの小説に心動かされたのは、そこでみなさんが挙げている、女性の強さとか、未来にうかがえる幸せとか、人の絆とか、そういう具体的なヒューマンな部分ではなくて、この小説のなかでつかのまの幸せの時期を暮らした背景にある、日本の風景というのか風土というのか、その部分なのです。輝く緑とか、海風とか、光がまたたく海面とか・・・あるいは祭りの場面とかも・・・そういうのが書かれている行を読むと、なんだかどうしようもなく涙が出てくるのでした。これはどういうことだろう?結局は「日本の日常」を、あるいは蚊取り線香のCM的な「にっぽんのなつ」みたいなことを、五十年も生きていると、もうそれが一番大事な個の背景にあって、そこを突かれたってことかもしれない。