須田塾例会に出席。
S・イトウ君の写真を見ながら、須田先生が語ったことを、忘れないように一生懸命携帯電話にメモ記録をしたのだが、帰宅して読み直すと、そのときに先生の意見を聞いて納得したり理解したリアルで生き生きと聞えた意見を、なんだか既に忘れてしまっている。
メモ欄に残っているのは「こっち側(鑑賞者側)が入っていける余地がある。情感が漂っている。見る側にもドラマを作れる余地がある。切り返しのあるムーヴィ的。裏のストーリィが並存出来る写真なので、(撮影者の作る)表のストーリィは硬派で乱暴なものを用意するとよい」
M本さんの写真を見ながらは「泉鏡花や小泉八雲とは全然違うけれど、その行き着く先はそういう(泉鏡花や小泉八雲のような)境地かもしれない。写真の読後感がそういうところになると面白い」
当のイトウ君やM本さんの写真をここに掲載できるわけでないから、こういうことを記録しても片手落ちかもしれない。ただ先生が写真に具体的に写っていることよりも、鑑賞したときにどういう心地を鑑賞者に残すか、その残った心地が面白いか(作家の個によっているか)に注目しているのだなと思ったので書きました。
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茅ヶ崎駅から家までのあいだ、ふと空を見ると朧月が掛かっていた。デジカメを珍しくテレ側にして、TVモードにしてシャッター速度を上げて一枚だけ撮ってみるが、どうやらピントが合っていない。それで写った朧月は、小学生のころに買ってもらった屈折天体望遠鏡で初めてみた木星のようにゆらゆらとしていてそのなかにぼんやりと色づいているのだった。
そういえば、初めて望遠鏡を買ってもらったときには、どんなに遠い恒星でも望遠鏡さえあればちゃんと丸くその表面が見えると思っていた。勿論、実際には望遠鏡で覗こうが、遠くの恒星は点にしか結像しない。小学生の私は、望遠鏡のピント操作をすることを知らずに、すると点像のボケ像が丸く見えるから、それが恒星の表面を見ているのだと思っていた。そして一生懸命にそのボケ像をスケッチした。数日してその間違いに気付いたけれど。
写った朧月の写真が液晶ファインダーに再生されるのを見たら、そんなことを思い出した。
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明日の午後からは雨らしい。
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・・・もうひとこと、何かを書きたいのだけれど、何を書いても嘘臭くなりそう・・・
弊害が減って、構想や計画が順調に進みますように。