大事なものをくしゃくしゃにした思い出


 たぶん二十代のころに読んでから三十年ぶりの再読になるのだろうブローティガンの「芝生の復讐」を読んでいる。
 学生のころには「アメリカの鱒釣り」が大好きで、何度も何度も再読して、自分もブローティガンの、というよりも藤本和子訳のアメリカの鱒釣りのような、詩のような小説のような短い文章を書いてみたいものだなどと思ったものだ。なんかゴム動力の模型飛行機を生き物のように扱う女の子の出てくる話とかをでっちあげた気がする。
 だけど、当時は「アメリカの鱒釣り」以外のブローティガンの著作は、何冊か読んだけれども、特に印象に残らないまま、何が書いてあったのか何も覚えていないのだった。ところが、先週だったか久々に河出文庫の「西瓜糖の日々」を読んだら、学生時代とは違ってなかなかに面白かった。ちょっと甘すぎる気がするけど「糖」なんだからそれでいいということなのか。そこで、引き続き新潮文庫の「芝生の復讐」を読み始めた。
 いま三分の一くらいまで読んだが、そこまでに読んできた話の大方は既に詳細を覚えていない。こういうのって若い人には信じられないことだろうな。一昨日に読み始めた本の、今日までにたぶん二十くらいのショートショート(でいいのか?)を読んできて、では二十の話を並べよ、と言われると、せいぜい五か六しか思い出せない。もちろん本をぺらぺらめくってどこか数行を読めば、思い出すのだろう。タイトルくらいだと思い出せないだろうな。
 若い人は十くらいはすぐに言えるし、索引でタイトルを見れば全二十篇の概要をすぐに話せるのではないか?
 それだから、ここまで読んできた話に「クリスマス」のことが書かれていた、もしくはちょこっとだけでもどこかに出てきたと思うのだが、それがどんな話のどんな場面だったのかは判らない。ただ、昨日、そのクリスマスの場面が出てくるところを読んでいて、思い出したことがあったので携帯電話にメモをしておいた。いまそのメモを読むと「くしゃくしゃにしたクリスマスカード、Tのかばん」とある。
 何かのきっかけで久々に思い出す記憶があって、そういうきっかけがないと、その記憶は思い出さなかったわけだから、きっかけに当たらないためにずーっと思い出していない記憶もたくさんあるに違いない。たまたま「芝生の復讐」のクリスマスか何かの場面を読んだことで「くしゃくしゃにしたクリスマスカード、Tのかばん」という記憶が蘇った。
 しかしこんな記憶はもちろんのこと極私的なことであって、ここにその詳細を書いても読んでいただいている方にとって面白くもなんともないかもしれない。
 クリスマスカードを初めてもらったのは、親戚のおじさんからで私が五歳の冬だった。カードを開いたら、きらきらの銀や金で描かれたもみの木やサンタクロースの絵が描かれていた。それまで見たなかで一番、きれいなカードだと感動した。いまでもその嬉しかったことを覚えているのだから相当なものだ。世の中にこんなにきれいな絵(カード)があるものなのか!と思ったのだ、きっと。そのカードはそのとき、自分の持物で一番大事なものになった。ところが、カードをもらって二日か三日目、そのあまりの美しさが憎らしいといったような感情でも湧いたのだろうか?そのときの気持ちなんか全く覚えていないのだけれど、愛憎という言葉があるけどそういうのが子供にも発生したのかな。大事で大事でたまらないそのカードを、突然鉛筆でぐしゃぐしゃに塗りたくりくしゃくしゃにしたと思うのだ、確か。それではっと気付いてから、取り返しのつかないことをしてしまったと思い、火がついたように泣き出した。
 芝生の復讐のどれかの話を読んで、急にそんなことを思い出した。それで、そこからこんなことも思い出した。自分の息子Tが二歳か三歳くらいのクリスマスに、サンタクロースに何が欲しいかお願いしておけば?とか親が誘導して欲しいものを聞き出したらカバンだと言うから、ある日会社の帰りにティンカーベル(だったかな?子供ブランドの)に寄って、黄色い布製のバッグを買ってきた。ポケットに赤とか緑も使われていた。息子はそのころ、黄色が好きだったように思う。だからその色にしたのだろう。最初に覚えた色に関する言葉も「黄色」だった。次が「赤」。もちろん最初から「きいろ」とか「あか」とかは発音できなくて特別なT語ではあった。
 そのバッグをもらった息子は予想をはるかに超えて、そのバッグを気に入ってくれて、しばらくのあいだ毎日そこに何か入れて遊んでいた。ところが、まさに私がクリスマスカードをくしゃくしゃにしたのと同じような気持ちだったのではないかと推測するのだけれど、ある日、息子Tはそのバッグを床に投げ付けたことがあったのだ。
 以上を連鎖的に思い出した。もし私が何か発作的に破壊的犯罪を起こしたりすると、こういうエピソードから心理分析が始まったりするのかもしれないが、こういうことって実はみんな似た記憶があるのではないのかな。
 というように小説を読んで記憶が浮上したわけだが、こういう効果を、小説でも詩でも写真でも、いや、街を歩いていて光景を見たり風を感じたりするそういうことも含め、何かのきっかけで思い出す。だから何?ただ、そうだよな、と思っただけです。

 日曜日7/3。早朝に起きたら曇り。しばらくテレビを見ていたがまた眠ってしまい、次に起きたら10時過ぎで今度は晴れている。そこで13時ころにカメラを持って外に出る。藤沢から江ノ電で鎌倉高校前。砂浜をたどって七里が浜から稲村まで歩く。そこで電車に乗って由比ガ浜。遅い昼食をラ・ジュルネで食べる。韓国風青菜いためアボガド載せご飯(サラダ大量付き)。何度もジュルネで食べているけど、これは初めて食べた気がする。すごく美味しい。外のベンチで一人で食べる。店内から店主AさんスタッフKさん、ほか常連さん、などが話している。その声がもれ聞えてくる。話の詳細は不明だけど、いくつかの単語が聞き取れて、その単語だけ集めると何ができるのかな?自分はその会話の中にいないけど、その和気藹々を感じ取れる位置にいる微妙な位置取りが今日のところは居心地が良いのだった。

芝生の復讐 (新潮文庫)

芝生の復讐 (新潮文庫)


 帰路、藤沢タワーレコードでライアンマッギンリーの写真がジャケットに使われているというだけでシガー・ロスというバンド(個人名?)のアルバムを買う。特価1000円だったのでジャケ買い失敗のリスクも緩和できるという読みもアリ。
(注;帰宅後ウィキで調べたらアイスランドの超メジャーバンドでした)
 その帰り、エスカレーターで私のすぐ後ろに乗っていた二歳くらいの男の子が転等して頭を金属のエスカレーターの「段差部」の角にごっちんと派手な音をしてぶつける。下向きに傾いて倒れているから自分で起き上がれない。驚いて、転んだ男の子を抱き上げて母親に渡す。大泣きしていたけど大丈夫だったろうか?二歳くらいの子供ってこんなに重かったかな?自分の子供たちがもう大人になってしまって、ほんの二十年くらい前のことなのにそういうことって全く覚えておらず、重さと柔らかさにびっくりした。そのあと藤沢駅まで歩く途中、驚いて子供を抱き上げたときに引きつったのか左の胸筋が攣ってしまい痛かった。
 窓を開けて、さっきからこのブログを書いている。買ってきたアルバム、なかなかいい。書いているうちに窓から見える青かった空が真っ暗になった。南風がまだ吹いているから心地良い。

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