雲間の金環日食


 早朝4時前、半分眠りながら雨音を聞く。ひとつき以上前から休暇を申請し、今日は休みにしてあるのだが、肝心の日食はどうやら見えないのだろう。
 5時、起きて天気予報を見る。北関東の方は晴れだが、南関東は厚い雲に覆われている、とのこと。天気予報士たちは今日が曇りや雨になることをとうのむかしに知っていたのではないのか?だけどがっかりさせないために、雲のあいだに見えるかもしれない!などと可能性を言って、期待を持たせているのではないか?もしかしたら日食グラス会社の回し者なんじゃないのか?なんてくだらないことを心の中で考える。
 5時過ぎ、それでも家を出る。傘持って。茅ヶ崎駅までは自転車。その間は雨は止んでいた。もしここで雨が降っていたら出かけていなかったのではないだろうか?
 6時過ぎに桜木町駅着。見えないにしても日食見物で人が集まっていれば、それはそれで面白い風景かもしれない。雨脚強まる。汽車道を通り、赤レンガを通り、大桟橋へ。ずっと雨やまず。傘の色がカラフルできれい。何枚も写真を撮る。
 7時。濡れたベンチをバンダナで拭いて座る。有料日食観測ツアーの人たちのエリアのすぐ後。ツアー向けの解説が私の場所にも聞こえてくる。宇都宮晴れ、東京六本木晴れ、等々の、もういまからそこには間に合わない各地の天気が話される。みなさん一喜一憂。とくに近くの東京都心が晴れていると聞くと、悔しい。あきらめの笑いが起きる。海老名市くもり、とか聞くと、仲間がいるような気がする。
 7時15分過ぎから何度か、雲間に太陽がのぞく。三脚の放列には望遠レンズを付けたカメラマン。みないっせいにシャッターを押す。こっちは標準レンズです。日食撮影のために特別の準備もしてないし。いつもスローシャッター写真を撮っているND16×2枚にさらにND4を重ねて、プログラムモードでちょっと撮ってみるが、太陽のあたりはぼんやりと露出オーバーの白いかたまりにしか写らない。露出をずっとアンダーにしてみる。マイナス2段でも欠けている太陽そのものはオーバーとなり、ちゃんと写らない。だいたいが、コンデジの望遠側画角にも劣る(日食撮影に向かないという意味で)、24mm(フルサイズ換算40mmくらいの画角)のいつものレンズで撮っているわけで、その意図は、日食を見に来ている人たちを撮ろうと思っていたわけで、でもいざ太陽を日食グラス(ちゃんと事前に買っておいたのです)で見ていると、やはり感激してしまう。するとカメラを太陽に向けている。次に露出を平均測光からスポット測光に切り替えるが、それでもダメなので、結局はマニュアル露光にして、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる式で、シャッター速度をいろいろ切り替えながら撮ってみる。でも太陽は、雲間からちょっと現れては、またずっと消えていく。また現れて、すぐ消える。またまたちょっとだけ現れて、すぐ消えてしまう。雲の具合によっては日食グラスでは暗すぎる。カメラに使っているNDフィルターをはずしてそれを使うとちょうどよく見えることもある。
 7時半過ぎ。解説によるといまから5分くらいが金環の時間。雲の切れ間もしくは雲を透かせて、リングになった太陽が見える。解説の方曰く「私もいままでに2回金環日食を見ていますが、今日の金環日食が一番きれいです」。それはもしかしたら雲間に見え隠れするからなのかもしれない。拍手や歓声が起きると、そこにいるみんなが幸せな気分になっている。
 7時40分。金環おわる。ほっとした空気が流れる。部分日食が続く。駅に戻る道を歩きながら、ときどき立ち止まって、日食グラスで空を見る。
 8時。立ち食いソバを食べる。かき揚げ天ぷらそば、350円。
 8時20分。横浜スタジアムのある公園は関内駅からビル街に向かう通勤の人たちが大勢歩いてくる。一人、それにさからって駅の方へ歩く。ノーファインダーで通勤の人たちを撮ったりしながら。
 9時。電車の中で考える。日食を、知らないひとたちとはいえ、パブリックビューイングみたいに、大勢が同じ目的で一緒に見たことで、それぞれの歓声や拍手や、あるいは見上げているみんなが同じことをしているその姿勢やらが、一体となって認識されて、すると仲間意識みたいなことができてきて、嬉しさとか楽しさとか幸せな気分を増加させたように思う。日食ではなく、花火大会とかサッカーの試合のサポーター席とか初日の出とか、もしかしたら日曜の午後の銀座歩行者天国とかもかな、そこに属していることでそのことを肯定しているみんながいて安心を呼ぶのかもしれないな。とかを考える。でも幸せってつかのまに過ぎるだろう。
 9時40分。茅ヶ崎駅前スタバでティーラテを飲む。
 10時過ぎ。帰宅して撮った写真をチェックする。これ(上の写真)は少しトリミングしています。これくらいしかちゃんと写っていなかった。


 最初はこういう写真を撮ろうと思っていた。けれど、結局は上のような日食そのものを、金環の最中には撮っていた。当然、まわりにいた大勢の用意周到なカメラマンの方がちゃんとした写真を撮っているのだが、こうして自分で撮った写真であるから、それでいいのだ。それがいいのだ。標準レンズでちっちゃい太陽だとしても、自分で撮ったというそのことがいいのだ。
 と考えると、このブログで何度も書いてきた、カメラの放列の結果大量に複製量産される同じような風景写真の意味は何なのか?という否定的な問いは、パーソナルに落としていくと、実は肯定的にとらえるべき行為かもしれない。
 自己弁護だろうか。