枯れた花


 いつも乗り換えをする街で、乗り換えの途中に街に出てファストフード店や本屋に立ち寄ったりする「いつもの」範囲から、ありきたりの言い方をすれば「ほんの気まぐれ」でなのか、一筋だけ先まで足を延ばしたり、いつもは通らない路地を曲がってみたりしてみる。でもそれらの道や路地だって、じゃあ本当に初めて歩くところなのかと言えばそうではない。十年くらいのあいだには、同じような「ほんの気まぐれ」だって何回かそういうことをしている。冬の日差しは斜めから差して、葉を落とした街路樹の影を作る。血管のような枝の影は、いつもあやふやに建物の壁に映る。そういう冬の真昼間にとぼとぼと歩いていると、具体的な記憶に基づく懐かしさや、ここにあった筈の建物がすでにないというような、事実に基づく悲しさといったことではなく、もっと普遍的な溜息のような思いに捕われている。それはむしろ、何が変わろうが実は何も変わらない、といったあきらめのような気持ちだ。デジタルカメラを取り出して、あきらめの原因を探すように、ときどき立ち止まっては写真を撮るが、溜息やあきらめの気持ち(に似た心情)は、写真にも写るのか。どの駒もあやふやに安定せず、水平も垂直もゆらいで、パラフィン紙にくるまれているようだった。