鎌倉


 読書はここのところまずまずの満足が続いている。京都旅行のあいだには昨年中目黒カウブックスの均一棚から拾いだした山口瞳著「わが町」を読んでいた。昭和30年代の多摩ニュータウンあたりなのかな?国立なのかな?そのあたりの開発が急ピッチで起きている町の中で著者と町の人々との日常風景が続くのだが、最後の一編が総集編のような俯瞰的視点で描かれていて、そうすると日常のこまごましたことが混然一体となって、なんだか清々しい塊がぽとんと実ったように思えるのだ。
 そのあと西崎憲著の「世界の果ての庭」という不思議な小説を読んだ。複数の話があまり絡まらずに進むのだが・・・いや、エピソードや具体的相関ということでの関連が少ないのだが、にもかからず絡んでいるようにも思えるのは常識的な場所や時間や登場人物の近しい相関が少ないという「絡みのなさ」に騙されているだけであって、もっと違うなにかを軸にするとすごく関連しているようなのだが、その何かがよく判らないもどかしさが楽しかったりするのだ。
 実はこの小説を京都旅行の後日に読み始めたらそれまで名前すら知らなかった皆川淇園が小説の中に出てきて、その人が京都旅行で訪れた弘道館を作った人だという偶然に驚いた。
 そのあと、昨日、読まないまま売ってしまおうと思っていた105円で買ったレベッカ・ブラウンの「若かった日々」を、片づけ中にふと「売るつもりの本を入れた段ボール」から引っ張り出して読みだしたら、面白いのだった。

 鎌倉は、一昨年に長谷の珈琲屋六番地が閉店(?荻窪だかに帰ってしまった?)し、ゆっくりと読書ができる喫茶の店がうまく見つからないままだった。
 今日は、藤沢から江ノ電七里ヶ浜まで乗り、江ノ電の駅で言えば、稲村が崎、極楽寺、長谷、由比ヶ浜、和田塚、鎌倉、と、六駅分を、ときには海沿いを、ときには商店街を選んで歩いた。
 途中、極楽寺切通しを歩いていたら古民家カフェの道標を見つけた。その道を上ってみる。人と、もしかしたら郵便のバイクくらいは途中まで行けるのかもしれない(途中に数件分の郵便受けがまとめて設置してあった)まがりくねった細い道を上がった先に、ラ・メゾン・アンシェンヌという店があった。一階はパンやジャム、雑貨などの店で、急な階段を手すりにつかまりながら(私の場合は、ですが)上がると喫茶が出来るようになっている。小高い丘というのか山と言ってもいいのか、その中腹にあるから窓から入る風はさわやかで、鶯の声も聞こえる。珈琲がスープカップのようなので出てきたのでちょっと驚いた。先客の若い男性の一人客は読書の途中に眠くなったらしくうたたねをしている。若い女性二人客は結婚を含む将来展望について話しているようだ。後からきた四十代くらいのご夫婦は今後の鎌倉観光のスケジュールをガイドブックを見ながら相談している。さらに入ってきた若いカップルの女性は、男性に敬語で話している。まだ付き合い初めて日が浅い初々しいカップルなのかもしれないな。足踏みミシンなんていう単語が漏れ聞こえてきた。
 私はその「若かった日々」を持ってきていて「魚」という短編を読み出し、読み終える。
 父と喧嘩をした若い(女性の)「私」は、夜、家を飛び出す。『家から飛び出て、向かいの空地まで駆けていった。空地の真ん中まで歩いていった。夜は暖かく、そよ風が吹いていて、海の香りがほとんど嗅げる気がした。塩っぽい、清潔な感じの香りだ。空地は草ぼうぼうだった。草が私の腰の高さまで伸びていて、私が歩くと草も揺れた。月光を浴びて、草は金色とベージュと銀白色で、綺麗だった。私は草の葉先に、身をつけた羽根みたいなさやに、手を滑らせた。空は暗かったが澄んでいた。』
 なんとまあ、場面がリアルに浮かぶことでしょう。

 読書が出来そうな店が新たに見つかった感じがした。


わが町 (1968年)

わが町 (1968年)

若かった日々

若かった日々

途中立ち寄った公文堂古書店上林暁のこの本を購入した。今日の店番はいつものおばちゃんじゃなく男性。気さくなおばちゃんはどうしたのだろうか?