映画をめぐる美術 展


 京都府近代美術館で開催中の「映画をめぐる美術展」。いま、作品リストを見直すと、アンリ・サラによる「インテルヴィスタ」26分、アナ・トーフによる「偽った嘘について」20分、エリック・ボードレールによる「重信房子、メイ、足立正生のアナバシス、そして映像のない27年間」66分、やなぎみわによる「グロリア&レオン」26分、田中功起による「ひとつの詩を五人の詩人が書く」68分、などなど、動画を中心とした出展作品をぜんぶ見ようと思ったら、どれだけの時間を確保して臨めば良いのか?そういうことは全く知らずに、行ってしまったので、ほとんどの作品を見切ることが出来ないまま、試しに端っこを齧った程度にしか鑑賞できなかった。

 この展示の解説は(以下転載)
『 詩人として出発したベルギー出身の芸術家マルセル・ブロータース(1924-1976)は、1964年頃から美術の領域に身を置き、言語とイメージの関係を扱ったオブジェや写真・短編映画の制作、また公開書簡や出版などの著述活動、さらに美術を取り巻く権威や制度を批判的に検証する虚構性に満ちたプロジェクトなど幅広い創作活動を展開し、戦後美術の転換期に大きな足跡を残しました。
 仮面を付けたブロータースが手にしている書物『映画の発明1832-1897』(ジョルジュ・サドゥール著、1946)が示すように、ブロータースにとって映画は重要な表現方法のひとつであり考察対象でした。特にブロータースが映画を「書く」ための方法として位置づけたことは、これまで「視る」ことへ主に意識を傾けてきた映像表現に対して「読む」という視点を改めて強調した、と言えるでしょう。時にユーモアを交えながら言語とイメージの関係を根源的に問うブロータースの実践は、後進の世代の美術家たちに大きな影響を与えて続けており、特に写真やヴィデオ、インスタレーションの手法を用いた表現が急増した1990年代以降の美術動向を理解する上でも、有効な手がかりとなるように思えます。
 主に1990年代後半以降、映像表現を手がける美術家たちに見出せるひとつの傾向として、映画の技術や理論、歴史に高い関心を持ち、過去の映画作品をさまざまな形で参照・解読するという創作手法が挙げられます。こうした傾向を視野に入れつつ、今回の展覧会では、ブロータースによる映画に関するテクストやプロジェクトを参照軸とし、そこから引き出される5つのテーマ――「Still / Moving」「音声と字幕」「アーカイヴ」「参照・引用」「映画のある場」――に即して、国際的に活躍する美術家13名のフィルム、写真、ヴィデオ、インスタレーション等の作品により、映画をめぐる美術家の多様な実践を紹介します。』
ということで、この文章を読むと、なかなかに興味がそそられる。『「視る」ことへ主に意識を傾けてきた映像表現に対して「読む」という視点を改めて強調した』とか『ユーモアを交えながら言語とイメージの関係を根源的に問う』とかいう文章に。

 実際の展示に五つのテーマごとの明確な区切り(部屋がかわると同時に章立ての頭としてのテーマ名が出てくる、とか)はなかったように思うし、多くの作品は、日本人にとっての外国語であるフランス語や英語で語られたり、動画中にテキストとして出てきたりして、そのテキスト(言語)と映像の関係を考えるのが本展の狙いということなのだろうが、このテキストに日本語訳がないのだ。(アナ・トーフの上記作品にはiPADにより作品に出てくるテキストの日本語訳が見られるようになっていたが、一台あるだけで作品と連携して自動的に画面が変わるわけでもなく、気付く人は少ないかもしれない。

 すなわちこの展示は、やたらと親切すぎる(ときに過剰に鑑賞の仕方を強要する?)日本の美術館の企画展としては異例の「突き放し方」をしているように思えた。最初にマルセル・ブロータースの短かい動画作品が上映されている部屋があるのだが、懐かしい自動巻き戻し機能付きの8mm映写機が何台も置かれていて、フイルムを掻き落としつづけている。今から見るとはるかに「悪い」画質の映画で、その作品を読み解くためのキーワードが、ときどき画面内にテキストで出てきたり、フランス語(ベルギー語?)の音声が聞こえたりするのだが、キーワードの意味がわからないから憶測や妄想や予測をして見るのが精いっぱいなのである。それでも「つまらない」訳ではなくて、なにか伝えたいことの「感じが判る」気がしないでもない。でも、その感じを楽しめるための集中力がなければ、へえなるほどそんなかんじね、で通り過ぎてしまって、面白くもなんともない、かもしれない。

 それで思ったのが、われわれが意味がよくわからないままに、洋楽を聴くということで、詩の意味が判ってロックの曲を聴いている人の心の中で起きている理解や解釈と、なにも詩の意味が判らないけれどやっぱりその曲が好きで聴いている人の心の中で起きている理解や解釈に、大差があるのか同様なのかは判らないが、そういう「詩の意味がわからない洋楽を聴く」ような感じかもしれない。それで「詩の意味がわからないまま洋楽を聴いている」ことが鑑賞するうえで何かが欠如している故に鑑賞のレベルが低くなっている、などとはまったく思えないように、この展示のキーであるテキストや言語が「判らない」という目隠しのような鑑賞になっても、それでいいではないか、とも思えるのだ。

 エリック・ボードレール重信房子にまつわるような作品を、ずーっと食い入るように見ている私より十歳くらい年上に見えるおじさんがいたな。きっとこの作品の「見え方」につながる個の記憶がはるかに違うのだろうな。

 というわけで、なかなかに興味深い鑑賞で、東京に回ってきたらまた見たくなった。今度は十分な時間を用意して。