振動を測る

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時間別の事前入場申込制で開館を継続している神奈川県立美術館葉山に若林奮のコレクション展を観に行く。強風。曇り。さてこの作家が「振動尺」と称した自身(主体)と自然(相対)との間にある振動を測る尺とは何なのか?以前、この美術館で開催された同じ美術家の大規模展でもそのことを考えながら鑑賞をしたことを思い出す。それにしても作品がみな面白い・・・っていう「面白い」という表現もテキトー極まりない感じだけれど、すなわち展示した作品に興味が惹かれて、これはなにか?とかテキストで置き換えようと考えたり理解しようとしたりする以前に、まず、テキストにしようとする前の一瞥の感覚として、もっとピュアな感じで「いい」とか「好き」とか「気になる」といった感情がまず鑑賞者である私の中に起きるところから、すなわちそれが「面白い」という肯定的な接し方として作品と私の関係が始まるのだろう。作品によって、自分の心の感情が「掻き立てられる」「揺れ動く」「動かされる」等々、いずれにせよなんらかの反応が起きている。これは以前、某写真家が、いい写真とは身体性のある写真だとおっしゃっていて、すなわち「誰かがあなたを攻撃しようとする、それを見てあなたはその攻撃を避けようと防御するでしょう、その攻撃する側が写真で防御する側が鑑賞者」という説明をしてくださった。これは攻撃と防御ではなく、反発でも相思相愛でも嫉妬でもいいんだろう。「まるで興味がない」ではないところに生まれる大小さまざまな関係性のうち大であれば身体性が豊かでそういうパワーのある写真が「いい写真」とその方は(一例として)おっしゃっていたのだろう。が、しかし、世の中、いろいろな見方があるわけで、もしかしたら身体性がない写真が何枚も集まることで反転して大きな身体性を纏うとか、鑑賞の歴史のなかでは身体性を感じる写真が変化していて、流行のように、ある時のいい写真(いい写真=身体性の強度とひとまず肯定するとして)は別のある時はいいとは言えない写真に変化するかもしれない。

が、まずはそういう関係性を「いい」と定義して、その関係性を提供できる作品を作りたいと美術家が志したとすると、その身体性が上記の通り「掻き立てられ」「揺れ動き」「動かされる」といういずれの言葉もなんらかの波というか「振動」が起きる/起こされるということだ。とすると、若林奮の「振動尺」とは、作家と自然とのあいだに起きたこの身体性の影響を測定するようなことで用いられた造語なのかもしれない、とか考えたりした。まず美術家と自然の間に振動尺が反応する関係性があって、それを活力にして美術家は作品を制作したのだろうか。そのときにその尺で測った振動が必ずしも大きなことが重要ではないのではないか。もしかしたら無風状態とか小さなさざ波のような振動も尺が測れていて、そういう無風やさざ波の関係を作品にすることだってできるだろうか。そしてその振動を頼りに出来上がった作品を目の前にした私と作品のあいだにも上記のような「面白い」という単語に代表される関係性が生まれ、それもまた振動尺で測れる私という鑑賞者と作品とのあいだの関係性なのかもしれない。

ところでその「面白い」の契機となる一瞥で生じている感情とはこれまた何かな?と思う。そこに肯定的な感情を引き起こされるところには、言い方が難しいが鑑賞者=大衆の嗜好の流行(または底流的にある時代とともに変わらない嗜好)に訴えるところがあるのではないか。言い換えるとコマーシャリズムというのか。作家の意図ほど深くないところで、表面的に感じる「面白い」を(大衆に)誘発できるなにか。言い換えるとキャッチーであるかどうかの違い。若林の作品はこの入口でのキャッチーさがまずあって、その先に考察を促す。もっともこの考察のために一般鑑賞者であるわたしは作品の横などに沿えらえた解説を頼りにしているわけで、するとここでまた、解説文の有無や意味が不思議になってくる。解説を読まないとその作品に惹かれたり、意図するところが理解できない、解説がそれらをガイドしてくれるアシスト役としてものすごく重要なのだとすると、本当は作品は解説まで取り込んで作品でないといけないのではないか・・・。まぁ、完成して手元を離れた以上、製作者の意図や目的やらは蒸発してもいい、あとはひとそれぞれの勝手な鑑賞で構わない。鑑賞において合っているとか間違っているとかはないから、作品が裸一貫でそこにあって鑑賞者を受け止めて、作家の意図とはぜんぜん異なっていても、そこに振動を起こさせれば、それで十分だろう。という考え方もある。

もう一回、行ってみたい若林奮展でありました。

 若林 奮 新収蔵作品 | 神奈川県立近代美術館 (pref.kanagawa.jp)

 

今日でゴールデンウィークは終了です。