一緒にいること

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 午前、HDDに溜まっている録画した番組をDVDに移してから消去して、あるいは見たら消去して、HDDに新たな録画スペースを生み出す。このため「あてなよる・日本海」と「まいにち養老先生、ときどきまるスペシャル」をダビング作業と同時に見る。後者は三回目の視聴。養老先生は愛猫まるの亡くなる日には箱根に出張していて、亡くなったことは急ぎ帰宅する車のなかで電話で知ることになった。そのとき、窓の向こうにはずっと西湘バイパスから見える太平洋の、冬の明るい海が見えていた。帰宅すると、まるにはポインセチアが添えてあり、養老先生は「なんでポインセチアなの?」とまるを看取った奥様に問いかける。奥様は「クリスマスに間に合わなかったから」と答えた。養老先生はそれにはなにも答えない。後日になり、NHKのインタビューにまるとの日常のことを話す。朝起きて・・・それから・・・と、先生とまるとの日常の習慣のようなことを語っていた。一緒にいるということは習慣があるということが大前提なのかな、とそれを見ながら思った。習慣は、その日その日にはもう飽きていて、惰性だったり、面倒臭かったり、いやいやだったりするだろう。だけど、それゆえ、それが続いていることが大事なのかもしれない、などと思った。あるいは一緒にいるから知っているまるの習慣があり、一緒にいるから養老先生とまるのあいだに出来上がる二人(一匹と一人)の習慣が生まれる。そのあと、少しだけ古い写真、こっちはテレビ用ではなくデータ保存用のHDDにはまだ移動していない、PC本体にある範囲の写真を見直す。だいたい一年半くらい前までの写真。なかに二枚か三枚か、撮ったことすら覚えていないけど、ちょっと心動かされる写真を見つける。撮った日には、あるいは撮ってからしばらくは、その写真に心動かされたりはしておらず、ただの膨大な何にも使わない大量の撮りためただけのなかの写真だった。例えばこの上の一枚も。だから、写真は面白い。いつその写真を見たかによって、自分が撮った写真でも見え方はどんどん変わっている。この写真は、上記のテレビを観たあとだったから気になったのかもしれない。誰か友達と、こんな風に陽が沈んだあとまで、砂浜を走ったり歩いたりして、笑って遊んで過ごしたことが私にはあっただろうか?などと思う。この三人がひどく羨ましくなる。それから十年かもっと前に、中秋の満月の翌日だったかな、十六夜の晩に、写真仲間のHさんとHさん(ふたりともHなのです、たとえば東さんと吹田さんみたいに、実際には違うけど)と私の三人で砂浜に行って、月の光の下でビールを飲み、コンビニで買ってきたなにかを食べながらあれこれ(主に写真のことだったのだろう)しゃべった夜があったことを思い出した。それからまた十年くらい前に、自転車で太平洋沿いのサイクリングコースをI君とBちゃんと三人で江の島まで行き、蛤を買って、帰りに片瀬西浜で蛤を持ってきた携帯コンロに網をかけて食べたことがあったことを思い出した。あの日はそのあとすぐに日が暮れる時間になってしまい、茅ケ崎まで戻る頃にはすっかり夜になった。私の自転車のライトは、車輪から回転を拾って発電するダイナモ式だったからライトを付けると負荷が増えて疲れるのだった。そんなことをぽつぽつ思い出す。

 昨日の金曜、会社帰りの自家用車で、渋滞となり時間がかかり、途中でトイレに行きたくなった。それでセブン・イレブンに立ち寄って、トイレを借りたし、なにか買わないとな・・・などと思い、ちょうどアジアンフェアをやっているのか・・・そこでチゲうどんを買った。雨が降り始める土曜日の昼。土曜日曜に雨が重なるとちょっと残念だ。チゲうどんを電子レンジで加熱してから食べる。ゆっくり食べる。少し前に買ったOAUのCDを流していたら「昨日なに食べた」の主題歌の「帰り道」になった。いまさらと思えるような当たり前の習慣が二人のあいだにはあって、だけど別れてしまうと、そんな当たり前も忘れてしまう。いや、忘れるなと歌っているのか。あの日のことを。

 養老先生とまるは、まるの死がふたりを分かつまで、そういういまさらの当たり前の習慣を続けていて、それがぷつんと切れた。死んでから起きることは死人に起きることではなく、生き続ける方に起きる。死ぬ瞬間までの死ぬ前に起きたことはその人のことだったとしても。これは養老先生が番組中でも言っていたようなことだ。

 われわれは死により残された方になったときに閉ざされる習慣の量を悲しみと呼ぶのだろうか。でもだからといって習慣の量を減らしたり、関係を早じまいしたりはしないだろう(いや、する人もいるのかしら、ちょっと前のこのブログに書いた漫画家の寺田さんのように?)。そうしないことが生きる上の普通の(広い意味の)愛ってことなんだろう。

 この写真の三人はシルエットになりぼやけて写っているのに、たぶん三人は若く友達なんじゃないかなと思う(ぜんぜん違ったりして(笑)家族かも)。撮ったのは2021年の1月だったようだ。写真にはそんなデータがくっついているからわかってしまうのだ。三人はいまも一緒にいるだろうか。それとも一回の春を越えてちりぢりになったのかな。このあと三人はもっと暗くなった夜の道を一緒に帰ったのだろう。そうか、だから帰り道なんだな・・・