赤い橋


 だんだんと起床時間がずれてきている。大晦日から元旦にかけて夜更かししてしまったから。

 寝坊のせいで残り二時間くらいになっている午前の時間と午後の三時間を使って、年末に作ることが出来なかった年賀状を作成する。年賀状の投函が遅くなってすいません、この場を借りてお詫びいたします。
 何年ものあいだ、すぐに年賀状に使う写真を選ぶことが出来て、すぐにデザインしてフォトショップで加工することが出来た。それが、一昨年昨年とだんだんと年賀状を作るのに時間が掛かっている。とうとう今年は、最後まで写真やデザインを決めることが出来ずに、とうとうこのブログの年賀状版のような、京都行の報告を書き添えた葉書通信になってしまった。情けないです。

 夕方、食材の買い出しに妻と駅近くまで出た帰りに、家の近くの畑のあたりを散歩する。途中で陽が沈む。すると三日月にも届かない、新月から一日か二日過ぎただけのような細い月が西の空に浮かんでいるのが見えた。富士山もシ
ルエットになって見えた。

 二日の日に富士山を特集したNHKのテレビ番組を見た。その中で富士を描いた北斎と広重のことが語られていた。自由奔放に心の中の富士を描いた北斎と、見たままを忠実に再現しようとした広重。広重は北斎のことを批判するような文章も残しているらしい。アート写真のような北斎の富士と、報道写真的写実を貫いた広重というわけだ。そもそも写真というのは、写実に寄り添っている装置/方式なのに、それを使って、抽象やらアートや心の表現やらを目指すのは、なんちゅうかな、北斎のような絵師がいることは素晴らしく肯定できるけれども、写真となると相当に天邪鬼な行為かもしれないな、などと思ったりする。
 いや、写真でそんなことは出来ないという立ち位置に立つべきかもしれない。そんなことは出来ないからあくまで写実である。それでもその写実から何を伝えるかが、具体的な被写体の説明だけでなく、そこから飛翔したところへ到達させられるかどうかが、大事なのかもしれないな。なんて思ったが、こんなことを思うのも、初めてではなくて、そもそもこういうことを考えること自体が、マンネリになっている感があるな。
 最近は散歩をしていても、それとともに「思索」をするなど、とてもとても、なにもたいしたことを考えずにただ漠然、茫然と、歩いているだけではないかな。

 近くの赤い橋がきれいに見える。赤い橋の下のぬるい水、なんて小説のタイトルを思い出した。

 夜、年末に出来なかった部屋の片づけにトライするも、あまりのCDの量と本の量でいかんともしがたい。どうしたらいいのだろうか。積読本でもう読みそうもない本は処分しようとするが、そういう本がなくて、みんな読みたいと思うし。