家に帰りたい


 小島信夫の短編小説集「ラヴ・レター」に収録されたどれかの話か、またはその巻末の堀江敏幸の解説かを読んでいて、庄野潤三が小説「静物」の原稿を小島に見せて、小島がそれを評価したこともあって、かの作品が世に出て行った、と言うことが書いてあった。それまでは庄野は「静物」を書いたものの発表するに値するか自信がなかったのだが、小島の評価を聞いてから自信を得たということだ。あるいは、そういうことがほのめかしてあって、私はその同じ話を、2003年前後に青山であった小島信夫×保坂和志対談で聴いていたので、そのほのめかしから思い出した。こんなのは、ほのめかしなのかちゃんと書いてあるのか、短編集をもう一度めくればすぐわかるのだが、その短編集がいまこれを書いている茅ヶ崎の自宅にないので判らない。
 と、ここまでで、このPCの画面設定ではすでに七行も使ってしまったが、なんのことはない、ただそういうこともあって、十数年か二十数年かぶりに、庄野潤三著「プールサイド小景静物」を読んでみた、と言いたいだけです。
 この短編集のたとえば「プールサイド小景」では、話の終わり方が、そこまでに読者に与えた「どうなるのかな?」に応えずに、かといってはぐらかすでもなく、続く物語をぶつっと切るでもなく、
『続く物語があるけどそれがどうなるかは先のことで判らないというのが今日のこの時点であります』
という風である。他の短編もおおむねそうである。その終わり方に「そう来るか」などと思って、フームと顎の下に手を添えて感心したりしたが、そういう「感心」を楽しむという読み方で、いまの私はそういう読み方しかできないが、なんかそれでいいの?読書経験なのか何なのかが蓄積してしまい、小節の正しい読み方というか楽しみ方を汚染してない?とか思うのだった。楽しむより、自分勝手な評価者のようになっていない?

 それでまた写真のことだが、そういえば須田さん(須田一政さん)が、あまりに写真を見すぎていたゆえに(目の前の写真を)初々しく見ることが出来ない、というような独白(ってほどおおげさでもないが)のようなことをつぶやいたことがあるのを思い出した。

 ところで、その庄野潤三の、たぶん一番有名なこの短編集のどれかの話に、いやこの本は手元にあるから今一度確認すればどの短編か判るのだが、単純にあっちの部屋まで本を取りに行くのが面倒くさいだけなのだが、だからどれかの話に、幼い子供が初めて泊りがけの旅行に出た夕方だか午後に、今日は家に帰れないと知り泣く場面が出てくる。それで自分の息子がはじめて泊りがけの旅行に行ったときに、まったく同じように、今日はおうちではなくてここで寝ると聞いて泣いたことを思い出した。そのときにひとつかふたつだった子供は、仕方がないから今日はここで寝ることを納得しよう、と思い切る条件として、ここ(旅館)に牛乳はちゃんとあるのか?ということを訊いたのをよく覚えている。「ここ、ミルク、ある?」と言ったのだ。ちゃんと「ミルク」と言えない幼子のときだから「ミクク」だったけど。

 家に帰りたいけれど帰れないのは切ないだろうな。いつ帰れるか把握しているならまだしも、あてのない旅先とかでのホームシックは特に。それなのに、ひとごとのように私の頭の中には、サイモンとガーファンクルの「早く家に帰りたい」という曲が思い出されたりする。

 Wikiによると
ポール・サイモンが1965年にロンドンを拠点として活動していた頃、イングランドでソロ・ツアーを行った折にロンドンが恋しくなったことを元に作られた曲。アルバム『サウンド・オブ・サイレンス』(1966年)のためのレコーディング・セッションで録音されたが、同アルバムには収録されずシングルとして全米5位・全英9位に達し、イギリスでは初のチャート・インを果たした。その後、アルバム『パセリ・セージ・ローズマリー・アンド・タイム』(1966年)に収録された。』

 平塚の映画館で映画「卒業」を見たのが中学の二年か三年のときだから、1970年くらいだ。「卒業」は1967年の映画ということなのでそれが新作ロードショウだったのか、日本公開後に一年か二年して平塚の映画館に初めて掛かったのか、それとも再上映だったのかは判らないが。あのころは映画は二本立てが基本だったから、別の新しい映画と組み合わされた再上映だったのかもしれない。なんかカーペンターズの曲が使われている映画も見た気がするからそれと組み合わさっていたのかも。
 映画「卒業」にはサイモンとガーファンクルの曲がたくさん使われていて、中学の教室に行くと、サウンド・オブ・サイレンスとスカボロ・フェアとミセス・ロビンソンのうちでどれが好きか、などという単純な言い合いが起きたりしていた。クラスの安田くんと高橋くんはサイモンとガーファンクルのようなデュオグループを作り、別のクラスの山本くんやらが作った四人か五人組みのグループに対抗した。って、別に「対抗」というわけではないのだが、自分のクラスのバンドを応援してしまうのだった。
 安田君と高橋君はサイモンとガーファンクルを歌っていて、レコードと同じようにギターを奏でるから、私は同級生がすでにそんな「大人」と同様にギターを弾くのに仰天した。そうして自分もいつまでも子供ではないということを否応なく知るための一つの外的ショックになったのかもしれない。
 山本くんたちは「五つの空き缶」とかいうバンド名だったから五人組みだったんだなきっと。女子二名を含んでいた。それは、いま気付いたのだが「五つの赤い風船」をもじっているに違いない。赤い鳥の「翼をください」などをレパートリーにしていた。

 高橋君は私とは別の高校に行ったが、高校二年か三年のときに平塚市民センターで「自作フォークソングコンサート」といったような、地域の高校のフォークソング部から選抜された連中のコンサートに出ると聞いたので見に行った(聞きに行った)ことがあって、彼の歌声はのびのびと明朗に響いていた。
 山本くんはその「五つの赤い空き缶」をやりながら同時に私も入部していたブラスバンド部にも入っていて、トロンボーンを吹いていた。秋季市内中学校ブラスバンド演奏会で「クワイ河マーチ」(映画「戦場に架ける橋」のマーチ曲)を演奏したときにその曲の中盤のトロンボーンが主旋律を取るところで、彼の威勢の良い演奏は素晴らしかったが、唯一の欠点がリズムを無視してどんどん先走りリズムを早くしてしまうことだった。そのあとに旋律を引き継ぐクラリネットの内田君は、あそこまで早くなると指が付いて行けないかと思ってあせったと言っていた。指揮をしていた音楽の先生の風貌はいまでも思い出せるが苗字を忘れてしまった。サガラ先生でもないし、でもなんかそれに近いような。ええっと・・・

 仮にサガラ先生とここでは書くことにする音楽の先生は、ミニカという軽自動車に乗って学校に来ていた。ある音楽の授業で、サガラ先生はサイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」を掛けてくれたと思う。クワイ河マーチのほかにビートルズメドレーも演奏した。この譜面には終盤のクライマックスのところでトランペットのソロが数小節にわたり音符なしの自由演奏、すなわち即興演奏可としてあった。先輩のトランペット担当の小池さんがそこを吹くことになり、演奏会ではその数小節が上手くいくかどうか、小池さんは大丈夫なのだがもし小池さんが演奏会当日になにかの理由で来られなくなったときの代役の、にきび面の佐藤先輩ははなはだ危ういものだ、などとそこばかりが、ほとんどの小節で後打ちと呼んでいた、要するにリズム隊的な役割だった比較的に簡単でつまらないホルンを吹く私には興味の中心だったが、小池先輩がなんなくこなしていた。

 ビートルズメドレーにビートルズのどういう曲が含まれていたかよく覚えていない。仮にヘイジュードとかイエスタデイとかだとすると、たぶんそれらの曲は、それ以前から知っていた。ただそのメドレー中に「ノルウェイの森」と「エリノアリグビー」も使われていたことだけは今も覚えている。なぜならそれらの曲はこのときにはじめて知ったからだ。
 先日iPODで久々にビートルズの「リボルバー」を聴いた。

 サガラ先生のミニカは、夜に頻繁に、とある路地に停められていた。どこに寄り道をしていたのかな。

プールサイド小景・静物 (新潮文庫)

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