24年後の眠そうな町 「未明の闘争」感想


 武田花の「眠そうな町」を久しぶりにめくってみる。発行は1990年だから、すでに24年前の写真集だった。それなのに、やっぱり、そこに写っている“眠そうな町”の、人の暮らしのある「町」たることを構成している半分朽ちた断片は、やっぱり、2014年の3月に足利や伊勢崎で出会った風景と、さして変わりがないように見えるのだった。そのまえの24年、1966年から1990年のあいだで同じことを比べれば、もっとずっと大きな変わりようが写っているのかな。
 いや、こんなのは私だけの感覚で、それはもしかしたら通り過ぎるだけの、なにかすでに心の中で、この町はこう見えるであろうという予定的風景が出来上がっていて、それにある意味強引に合致させて安心を得ようとしている、それだけのことかもしれないが。
 それはそうだろうな、そこで生まれて暮らして大人になった人から見れば、どこもかしこも変わってしまった、と思うものだろう。そこを「知っていれば」そういうことはよく見える。だけど、通りすがりの視線が、24年前に撮られた写真集にある風景と、目の前の風景にさして変わりがないじゃんと無責任に思ったということ、それもまた事実でもあるのだ。そしてそれは別に驚くようなことでもなく、これまた普遍的にある当たり前のことなのかもしれない。そういう視線でそういうところを辿って歩けば。それが町たる存在のあるべき姿かもしれない。
 埋立地に忽然と出来上がった新しい町も、そのうちそうなって、そうなればそれをもって町が「時間的にも」完成したのではないか。

 先日、二週間かけてやっと保坂和志著「未明の闘争」を読み終わった。いろんな本を読んだそのあとに、自分がどういう風な心境(って単語とは違うなあ・・・)になっているかは、エンタテイメントであれば、あー楽しかったなあとかでしょうか?物語の主人公にすっかり魅せられて、作家の「作り話」だというのに、物語の「その後」に主人公にはこうなって欲しい、こういう幸せが来ますように、なんて祈ったり。そういうほとんどはまさに、大抵は波乱万丈で、奇跡的だったり、有り得ないような「物語」をベースにしている。
 でもって、保坂和志の小説は、そういうことに踏み出さない。そして、ときに今風の同時代的な口語で綴られる文章に、これも相当強い意識のもとに制御されてだろうけど、体面を繕うようなところもない。簡単に言えば、ありのままの会話や思考を、そのまま綴っていって、それでも人に読ませる力を纏おうとしているって感じか。 
 なんて構造分析やらをしても意味がないが、読了後に、なにか回りの、いつも暮らしている部屋の中や近所が、すべて別のなにかに見える。自分の視覚等の情報を脳が処理しているときのアウトプットに、お役所的に出来上がっている、これが来たらこう反応するのが「私」です、というところがあるとすると、それを切り崩そうという力が発生していて、なんだかふーっと深呼吸をしてから、具体性を伴わないにもかかわらず、期待感のようなことが満ちているのだ。