横断歩道を渡る人

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下北沢に住む家族を描いた畑野智美著「家と庭」という小説を読みました。面白かったです。今年になってたぶん40冊くらい(しか?)本を読みました。ほとんどが小説で。最近は読み終わったときに「読んで良かったぁ~」と思う本にあまり当たらない、というか読者である私の物語を楽しく読める読書力の広さのようなことが狭まっているんじゃないかな。でもこの本はそれに相当するよい読書だったと思います。市川準監督の私が好きな映画「ざわざわ下北沢」では主人公の若い女性が最後に下北沢をあとにする。弟の語りで、おねえちゃんが下北沢をいったん離れるのは下北沢は居心地が良すぎるからあえて一度出て行こうと思うんだろう、ってよく覚えてないですが、そんな理由が明かされる。小説「家と庭」に出てくる主人公と友人およびその家族のひとたちも、あるときにどどどっと下北沢を去っていく。小説と映画で描かれる下北沢という街の持っている魅力というか魔力はとても似ていると思った。最近は小田急線が地下に通るようになり以前に線路があったところにずーっと新しい店舗街が出来たとか。久しぶりに行ってみたいと思いました。下北沢が舞台ではないけれど、保坂和志著「カンバセーション・ピース」も家と家族の物語だった。ちょっと感じが似ていると思いました。

今日は妹と一緒に母の入居している施設に行き、整形外科と泌尿科の診察のために母を病院に連れ出そうとしたがかたくなに拒まれて断念し、患者なしのまま妹と二人で病院に行き医師と話してきた。妹と私は6歳くらい離れていて、子供の頃に三歳差以内だとよく起きそうな、兄弟げんかとかそういうのはなにもなかった。それぞれが一人っ子のような感じで育った。だけど、家族アルバムに貼られた写真のなかに、まだ一歳くらいの妹が口の周りにたくさんご飯粒をくっつけて、手を直接電子炊飯器のお釜につっこんでご飯食べていて、その横で私がふざけて同じようにしている、2人とも笑顔のモノクロ写真があるのを覚えている。写真があるからこうだったのかと思い出すというよりもすっかり忘れていたことを当然のように再び写真を見て記憶してそれが当時の記憶のように勘違いして安心し、だから当時のことは写真を通してそこに写っている静止画としてのみ覚えているのではないか。それでも写真があるからそういう記憶が残る。その妹が運転する軽自動車の助手席に座って、病院から施設に戻る(患者なしで)。妹は最近、足の神経が・・・とここにはいちいち書かないけど、不調のことを明るく話す。へぇ、ひどくならないといいね、と言う。今度は私が、朝起きたときに右目の角膜上皮を痛める日があり、そういう日はしばらく涙目になって目が痛いという話をする。電気炊飯器から直接ご飯を食べるという悪戯をしてから55年くらい経っている。

「家と庭」の登場人物はあまり事前に詳細を言わないまま、旅行に行ったり転居したりを大ごとではなくしている。きっとそのまま何年も経ってもうこの家では暮らさなくなるということをそのときはわからないんじゃないか。そしていつの間にかもうその家では暮らさないことを知らぬ間に了解している。日常とか習慣という単語に時間軸的な定義はないけれど、実は日常とか習慣ほど脆いものはないから、ただの「なにも起きない」話でもそれを淡々とつづられるとその不確かさを痛感して流転する人々のことが哀しくも愛しくなるのだろうか。

横断歩道を渡る人の写真は最近撮ったものですが、ちょっと向こうに止まっているタクシーと影がだぶっていて、それがいいのか悪いのかはわかりませんが・・・上の文章とは無関係でした。