KYOTO GRAPHIE 一日目


 数日前に、第二回京都国際写真祭(KYOTO GRAPHIE)が土曜日から開催されることに気がついて、昨年の第一回がとても面白かったことを思い出し、なんとしても行きたくなってしまった。そこで、いろいろと予定があるのを、特に妻に無理を言ってしまったりしつつ、土曜日と日曜の昼下がりには帰って来るという予定を組んで京都に行って来た次第。土曜日の朝、小田原7時過ぎの新幹線ひかり号に乗り、9時過ぎに京都着。金曜の夜に立てた周到(と自分では思っている)計画に基づき、写真展やイベントを回る。具体的には、
① 広川泰士STILL CRAZY 下鴨神社細殿
② 笹岡啓子 海景《FISHING》 京都造形芸術大学芸術館
③ 大坪晶 The Hidden Secrets of Her ユニテ(昼食も食べる)
④ JAPANESE PHOTOBOOKS Then and Now ASPHODEL(アイヴァン・ヴァルタニアンと川内倫子トーク
⑤ ネイチャー・イン・トーキョー 有斐斎弘道館(エリック・ピヨールと川内倫子トーク
安井仲治コロタイプ写真展 便利屋コロタイプギャラリー
⑦ ティム・フラックMore Than Human 嶋臺ギャラリー
⑧ 火星-未知なる地表 京都文化博物館別館
⑨ SMALL DELICATE&INTIMATE FILM-O-TAPES by K-NARF かもがわカフェ(夕食も食べる)
以上が4/19
以下は4/20
⑩ 瀧澤明子 Where We Belong  虎屋京都ギャラリー
⑪ スタンリー・グリーン 眼から心への細糸 誉田屋源兵衛黒蔵
⑫ ワーナー・ビショップ Eternal Japan 1951-52 無名舎
⑬ Supernature 京都芸術センター
⑭ Signature of Elegance-リリアン・バスマンの仕事 龍谷大学学舎本館
⑮ Diorama Map 西野壮平 京都駅ビル7階東広場
と、一日半で15会場を回った。


 KYOTO GRAPHIE、下鴨神社細殿では広川泰士写真展STILL CRAZYを見る。日本各地の原子力発電所をモノクロの大判カメラで撮った写真の展示。と、書くと、震災後、原発に対するなんらかの主張や告発を意図したもののように勘違いしてしまいがちだが、これらの写真は1991年頃に撮影されている。写された原子力発電所には、まだ工事中のところも含まれている。撮影当時、写真家が何を感じていたのか、予見していたのか、例えば漠然とした危機感や、嫌な予感があったのかもしれないが、それでも具体的な大災害がいつどこでどう起きるかは知らなかった。そういう事故の、いつどこでどう、というような詳細は不明だった、ということは重要ではなくて、それを予見して撮影していたころが未来への告発を行えた写真家の、写真家としてというより、一人の人間としての力量だとも言えるかもしれない。しかし、その議論はさておき、私が思ったのは、その写真が1991年に撮られたということよりも、原発事故を経験してしまった以降であるいま、その写真に向き合って感じること、写真を見て自分の気持ちがどうなるか、どういう思いが生まれるか、ということはまさに「今のこと」であり、すなわち、このことは今までも何度もこのブログに書いていることの、またもや繰り返しに過ぎないといえばそれまでなのだが、やはり写真を見るというのは、いつでも現在に起きる現象なのだということだ。
 スローシャッターゆえに原発の回りの道路を走っている自動車がぶれて写っている写真は、その車が、なにか海辺のテトラポット突堤を歩いているときに、足元から沸いては逃げて行く、気持ちの悪い船虫の群れのように見えて、それがそのまま今も依然としてというか今までよりずっと増してある、とくに最近の政府の原発政策が早くも震災前に回帰していっているようなことも手伝ってますますの、気味の悪さを感じさせる。北海道電力泊原発の写真は、近未来都市のように無人のプラントが「かっこいい」。しかし、その無人であることが、同様に気味の悪さにつながる。そういう風に、より肉薄してこれらの写真を、1991年の写真を、2014年に見るということが、ここから未来を再び予見するときに激しい恐怖につながるのだった。


 笹岡啓子写真展「海景 FISHING」は縄文土器縄文時代の道具や人が食べ捨てた貝殻などと一緒に展示されている。その文脈から導かれた感想なのかもしれないが、写真を見ていると、自然の中にある人の暮らしに、ずっと、縄文の頃から変わらない営みがあるという当り前のことを再認識させられる。とくに、雨上がりの朝なのだろうか、霧のある磯浜に日の光が柔らかく差すその中で、黙々と(に見える)海草を集める(なのか?)人たちの写真、爽やかで明るく美しい写真を見ていると、そこに写された光景が、今だろうが縄文の昔だろうが、いつも同じ、ずっと同じ、これからも同じ(であるべき)、というようなことを感じるのだった。
 ところで笹岡啓子のこの海景シリーズのうちの何枚かもそういう構図なのだが、広大な自然の中に小さく人が配置されている写真は、ここ数年か十数年かの、ひとつの「流行」のように感じる。でもって、私はそういう構図の写真にすぐに惹かれてしまうようだ。
 非常に表面的で稚拙な共通要素だが、そういう構図の写真が共通に見せるものがあるとすると、それは人の生きるということの、ちょっと滑稽さかもしれない。誰かの手の中で右往左往しているだけの人の営み。