面白い小説に出会う


会社の帰りにSTARBUCKSに寄って、何か冷たい物を飲んで休もうではないか!と思い付くと、その案が気に入って少しだけウキウキする。そして、文庫本を置いて空き席を、確保して注文に向かう。その十数秒後、おっかしいなぁ、冷たい物を飲む予定が、シナモンの味のする大きな、ケーキとパンの中間のようなものと、ホットのティーラテ・ラベンダーアールグレイを頼んでいる。頼んだものを受け取ったあとにも、なんだかなぁ、と後悔の出来損ないのような感情が残っている。なんで、こういうことになるのかな?心のどこかに甘いものを求める本能的な欲望があって、それが決定事項を覆すのか?裏世界の帝王みたいな本能、いや、煩悩。
 STARBUCKSの店内になつかしい曲が流れている。しばらく考えてから、それがジャクソン・ブラウンのファーストアルバムに入っていた、Doctor My Eyesだと気が付く。そのあとは、どうやらトム・ウェイツだ。右隣に座っているのは女子高校生の二人組。女子高校生のことは、最近はJKって言うそうだ。 左隣には私より15才かもっと年上の、きっちりとスーツを着た白髪の小柄な男かすわった。珈琲を飲んで、文庫本を読んでいる。熱心に読んでいる。本に没頭出来ていて、段々女子高校生の数が増えて、じやねぇ?とか、超、とか、カワイイ!、とか、ヤバ、とかが辺りを埋めてきても我関せずで心強い。
 米澤穂信編「世界堂書店」という文庫本を読んでいるが、もう、読みはじめて二週間は経つのにあまり進まない。ところが、いま、このSTARBUCKSで読み終えた短編はなかなか面白かった。短編小説を読み終わったときに、物語の具体的なこの部分とか、この登場人物に感情移入出来たとか、そういうことで面白いと感じることもあるけど、いま読み終えた、レーナ・クルーン著「いっぷう変わった人々」は、そういう面よりも、小説の色に染まるって感じだ。こういう感じ方、抽象的な、印象とあうのか雰囲気というのか香りというべきか、それを楽しめたという感じ。具体的な物語を楽しむ小説は一過性の高揚で、そのうちに物語そのものを忘れてしまうことすら普通に起きるが、抽象的な何かに惹かれた読書は、その印象が長く残る。
 写真にも音楽にも、様々な作品の比較に置いて、こういう視点からの違いがあるのだろう。決して二者択一ではないけれども。
 同じようなことで何度もこのブログに書いているのだが、ホンマタカシの「楽しい写真1」に書かれた切り口に影響されてる気もするが、取り合えず分類するための(理解するための分類をするための)軸の片側に決定的瞬間(を良しとする)写真を置き、もう片方にニユーカラーを置いてみるやり方は、騙されてる感じもなくはないが分かりやすい気がする。騙されている感じというのは、多面的にいろんなアプローチが出来ることを、わかりやすくするために一つの軸で、更には二者択一的にまとめ始めると必ず起きる。それに気が付いて、多面的に考え始めると、急に難しくなって、考察や勉強に時間が掛かる上に、理解のための分類は多岐にわたり始め、そこを尊重して一つ一つの差を認めていくと、小説の数だけ文学論があり、写真の数だけ写真論があり、曲の数だけ音楽論が出てくる、というのは極端かもしれないがでも作家の特徴が際立っていることが表現なのだとしたら、極端ではなくて自明なのか。
 と、分類学のジレンマのようなことを学びもせずに直感で書いてきたが、だいぶ脱線している。
話を戻すとSTARBUCKSで読んで、小説全体をくるむ色合いのようなことに魅せられてしまった「いっぷう変わった人々」は、写真で言えば、決定的瞬間には属さずに、抑揚が少ないフラットなその感じは、ニューカラーなのかな?と、読み終わってすぐに感じたのだ。(こういう感じをアンチクライマックスとかオフビートとかいうのかと思ったが、それぞれ言葉の意味を調べたら、共に違うと思う)この小説をこれから読む人にはここから先はネタバレになるから要注意。が、この小説にはもちろんいっぷう変わった人々が出てくる。空中に浮き上がったり、影がなかったり、鏡に映らない人々。この前提は実は相当に突飛で、読者を引き込む仕掛けとしては技術的というか用意周到ではないか。そういう前提を与えられた登場人物は、その他にはない力を使って、さらにもっと荒唐無稽な戦いや理不尽な指名に駆り出されていくのが、通常のエンターテイメント小説だとすると、この小説に出てくる連中にはそんなことは起きない。せいぜい医者に取り合ってもらえず悩んだり、同級生にちょっとだけ意地悪されたりする。影のない友達のために三人がくっついて歩くようになるエピソードなんかはまったくどうでもいいような些細なことなのに、鳥肌がたつくらいにグッと来る、そういう導かれ方をされてしまうのも凄い。彼らは物語のスタートで、「一風変わった」ことを提示されて、読者をぐぐぐっと引き込むが、でもただそれを持て余して、なんとかそこから「普通のみんな」のようになれないかで悩む。そして、そのうちに成長とともに、実際にそれは治ってしまうのだった。なるほど、上には「オフ・ビート」でも「アンチ・クライマックス」でもないと書いたが、これは「アンチ・クライマックス」かもしれない。
 ところで、決定的瞬間の対局にニューカラーを置くのは納得しやすいが、それはそれぞれに属する写真を見ていて知っているということが前提て、なにも知らない人が言葉だけを読むと、決定的瞬間の対極は非決定的瞬間、すなわちありふれた瞬間であり、ニューカラーの対極は、そんな単語はないかもしれないが、ノスタルジックモノクロってことじゃないのか。翻訳が必要で、ここで対極に置かれたニューカラーは、カラーという面ではなく、写真に写ったものに瞬間的にだけ発生した決定的瞬間(スポーツ写真は決定的瞬間の最前線だ)が少なくて、決定的でないありふれた瞬間を撮っている。それがたまたまカラー+大型カメラで作品を撮ったショアとかメイエロウィッツとかから(意識的に)始まったからニューカラーと言っているが、決定的瞬間との対極で論じるときには別の名前の方がいい。
 ニエプスが長時間露光で撮った家の屋根とか、アッジェのパリとかも、決定的瞬間と対極のような写真で、そういう写真価値は実は最初から生まれていた。だけどタルボットの写真のように、すぐにカメラでとらえるものが「決定的瞬間」であることの圧倒的な面白さ、それはそれまでは時間をかけて観察できなかった瞬間の物の形や表情をじっくりと観察できるという新たな体験だったのだから、それが生まれると、一番わかりやすい写真の効果として、一般大衆にも圧倒的な新規性をもって受け入れられた。
 ということを小説に転写すると、小説の誕生、が、どういう歴史の元だったのかは全く知らないのだが、誰も想像しえない物語を読むという驚きと楽しみとは、誰も瞬間を観察できなかった写真を見る驚きと楽しみと、同類だったのではないか。
 決定的瞬間とニューカラーは対極に置いて論じるといろいろと見えてくるのだが、対極に置いたらいけないと感じるのは、非決定的瞬間という意味でのニューカラーは決定的瞬間を踏み台にして、そこに飽きてしまった、決定的瞬間の写真をあまりにも見すぎてもう驚きを得ることがずっと少なくなった現代の人たちがたどりついた新しい価値ということで、ニューカラーは決定的瞬間からつながっている、直系だけど天邪鬼な子供なのかもしれない。
 で・・・うーん書きたいことがあるのだが、そこまでたどり着けない。今日のところはここまでで。

世界堂書店 (文春文庫)

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