はざま


 上の写真は東京駅近くのビルで。

 品川のキヤノンギャラリーで開催中の市橋織江写真展を移動途中に立ち寄って見てくる。
 市橋織江がmomentsという冊子に書いている写真展「Interlude」に関する文章が興味深い。いわく
『私が写真を撮るとき、常に意識しているのは「偏らない」ということです。〜(中略)〜ふと気になった光景でも、その場にいる人の服の色でポップな写真になると思ったら、シャッターを切るのを辞め、一度決めたアングルでも、このままだとクールな写真になってしまうと感じたら、少しだけアングルをずらして「クールな写真」という枠にはまらないアングルを探します。』

 数年前からこの写真家の作品はなんだか気になる。いかにも女性写真っぽいハイキーな画面作りと被写体選ぶが見て取れるが、それでも没個性でないようなところが興味深い。
 展示写真を見ると、中判のカメラが使われているが、その緻密さを生かすなんてことは毛頭なくって、ほとんどが手振れした写真でふっと視線が泳いでいる。それがこの文章にある「ずらし」なのか。
『つまり、私が写したいものは、(中略)「はざま」の写真です』とも書いてあった。

 写真を見る。大きく伸ばされてアクリル貼りされた輝くような展示は写真とうまくマッチしている。しかしこのふっと泳ぐような、あるいはひと肌くらいの温度を感じさせるような「ぶれ」はほとんどすべての写真がそうなっていると、この「ぶれ」がないとどう見えるのかが気になる。なんだか目の前に薄い一枚の半透明な布きれを被せられているようで、ずっと見ていると少しいらついてくる。写真家の特徴、あるいは私が数年間から「気になる」部分はこの「ぶれ」に起因しているのかな。それだけなのだとするとなんだか胡散臭いではないか。
 この文章によると形容詞でくくられるような枠に収まりそうな写真は「はずして」撮って「はざま」に落ち着き先を見つけるような写真を撮っている、というようなことのようだ。しかし展示された階段にいるカップルとか、広場のチェリストとか、それ以外の写真も、みなまるで映画のワンシーンのように見えて、おおいにアングルがかっこよく「決まって」いるように思える。「決まって」いることと「くくられる」こととは別なのだろうが、しかしカメラを向ける先の光景は、たとえば「フォトジェニック」という単語で括られる旧来からの価値観の内側にあるようにも思えてしまう。
 なんて書いてくると、市橋織江が書いた文章ほどには写真は「はざま」に存在していない感じがしてしまうが、たぶんそれは落とし穴で、そう言い切れるほどの自信もなくて、すなわちかっこいいこと言ってるけど写真見ると全然実践出来てないじゃん!とは言い切れなくて、やっぱりどこかになにか吸引力があってその引力圏内にはまってしまっている感じもする。
 すなわち、よく判らないけれど、判らないままに市橋織江の写真は相変わらずちょいと気になる。
http://cweb.canon.jp/newsrelease/2014-05/pr-ichihashi.html


今日はこの写真に写っているように夏の陽射しが照りつけて汗びしょびしょになるのだった。