須田一政展 田辺一鶴


 須田一政写真展「田辺一鶴」を見るために、夕方、横浜中華街近くにあるギャラリー・パストレイズへ立ち寄る。須田さんの写真展「口上」によれば『(前略)私(須田一政)もかれ(田辺)の「東京オリンピック」と題した講談にくぎ付けになった一人で、とにかくそのハチャメチャぶりに心酔感服、今で言う「おっかけ」になり、彼の舞台や身辺を撮影させてもらっていた時期がある。(後略)』とのこと。1957年生まれの私でも、東京オリンピックのときではないが、その後のある時期にはテレビで見かける田辺一鶴に大笑いしたかすかな記憶がある。人気絶頂のころのコント55号の出し物なんか、まだ小学生か中学生だった私の笑いのツボにストレートに合致していたようで、このまま私は笑いすぎで呼吸困難になるんじゃないか、と思われたほど面白かったことも覚えている。暗い六畳間の北東の片隅に置かれた白黒テレビで見たような。音声のノイズのせいか周波数特性のせいか、目の前のテレビのスピーカーから聞こえている音声なのに、それはどこか頭の上の方から降ってくるように聴こえたものだ。別に早送り撮影や早送り音声再生を流していたわけではないのに、たとえばモノクロの大リーグの野球記録映像が、バットを振ったり走ったりしているのが早送り映像のようにせわしなく見えるのと同じで(私だけでしょうか?)、あのころの映像や音声はみんな早送りのようだった。いや、時を経て、記憶が変容して、いま思い出すとそう思えるということなのだろうが。高度成長期のいけいけどんどんの世の中にあって、みんなが早口だった・・・なんてことはないか。

 いつのまにやら、中華街に行くと、これを家にお土産で買っていくという定番になっている、翠香園の肉まんに中華菓子をいくつか、買って帰る。明日から三連休。茅ヶ崎駅で家族の女性陣と待ち合わせて、つばめグリルで夕食を食べてから帰宅する。

 先日のこのブログに読書量ががたっと落ちてしまったことを「告白」したが、今週、買ったままずっと読んでなかった青山七恵の短編集と、山崎ナオコーラの中編と、西加奈子の中編を、立て続けに読んでしまった。途中で眠くなってしまうか夢中になれるかということも含めた「読書スピード」ってなにで決まるのか?読んでいるときは眠くもならずに一気に読み終える本は、もちろんそこに面白さがあるから読み続けられるのだが、一方ですごーく時間が掛かる本がつまらないかと言えば、むしろそっちの方がずっと面白かったりもする。この年になっても、読み終わると新しい知識や新しいモノゴトへの対処の方法や見方を知ることができて「眼を開かされる」ってことがあって、そういう読書が後者(時間がかかる本)であるのか。すぐ読める読書とすぐ読めない読書のあいだでは、脳の使われ方も違うのだろうな。やすやすと読める本は、こっちの常識や知識やらに照らし合わせて「手のうち」にあって読めるってことだろうか。
 だから、いい、とか、悪いとかではなくって。
 青山七恵は旨いけれどこじんまりしていて、ナオコーラはもう少しエンタテイメント性を含みつつはじけていて、西加奈子の文章は昭和の男性小説家の(立原正秋とかの??)ようだった。今回の三冊に限ってはそう感じました。