低床トレーラー


  ヴィム・デルボアによる低床トレーラー。あまたある公式非公式または個人の感想を綴ったネット上の情報から学んだところでは、レーザーカットされたなんとか言う名前の鋼材により細部まで実物にこだわって作られており、またこのシリーズはゴシックシリーズと称されているらしい。作家は、その出身か西フランドルという辺りで、宗教色の強いのがその地方の特徴、とも書かれていた。作家が何を問いかけているのか、あるいは鑑賞者がどう感じたのかは、そういうことが書かれた記事はあまり見当たらなかった。
レーザーカットか新しい鋼材かは知らないが、その素材は、ゴシック調に仕上げられて、DIYショップで大量に扱われていそうな、フェンスや門扉や、庭作りの為のちょっとした仕切りや、そう言うところに使われそうな略平面的なものを思わせる。それを大量に組み合わせて、多分、実物大のトレーラーが作られている。
次に、このことはあまり取り上げた記事がなくて驚いたが、その二つ目の特徴は、こいつが錆びているってことなのではないのかな?私は、近寄ってすぐに、わっ!錆びてるぞ、と思った。即ち、個人的にその特徴を挙げるとすると(みんなそうだと思うけど)、
1;主にゴシック調の装飾が施された板状素材
2;鉄製で錆びている
3;実物大だがもちろん本物のトレーラーではない
というのがこの作品の特徴だ。やや、見も蓋もない当たり前のことか。
この作品を見たときには、いいなぁ、と思った。カッコいいなぁ、とも。それでは何故にそんな風に感じるのか?自分の気持ちなのにこいつを解析するのが難しいのだ。
まず「実物大」であるってことが、この肯定的な感想に至るのにどう寄与しているのか?実物大が重要なら、本物のトレーラーを置くことと、この作品とは何が違うのか?
トレーラーという大きなものを実物大で作るという行為の「あり得なさ」が大事なのか?アートは何かを拡大解釈していくとこういうことになっちゃう、というような「あり得なさ」を愚直に実行することで、常識や視点をひっくり返し、当たり前だと思っていた視点というか視座?をずらして提示することで、何かを考える糸口を示す、なんていうことはいかにも言われてそうな気がする。では、例えば信じられないくらいの大量なレゴブロックで実物大トレーラーを作ったら意図は同じなのか?あるいは札幌冬祭りの雪の彫刻や、サンドアートではどうなのか?多分、それではこの作家の意図や、この作品を今回のコンセプトに照らし合わせてキュレーターの視点からしても、違うのだろう。
ではなんでレゴブロックや雪や砂ではダメなのか?そこら辺りにゴシック調というところから鑑賞者が一般的に持っているイメージを前提とした作品製作の戦略がありそうだ。はたまた、解説にあった、本当か嘘かはわからないが宗教色も絡んでいるのか。ゴシック調イコール教会建築などの様式、と短絡かもしれないが一般人にはそんな風に認識されている前提があるとすると、トレーラーなどという工事車両、アートとか装飾的デザインからは遠い、実用のために形が出来ているものに、そう言う一般的解釈が成り立っているゴシック調のパーツを持ってくるというところの意表を突く感じを狙ったのか。
錆びているところはどういう意図なのか?錆びている、即ち、使い古されて捨てられている、ずっと使われないままに放棄された、その結果もうゴミである、という解釈がありそうだ。
それが狙いなら本物の捨てられたトレーラーを持ってくればいい。本物の捨てられて錆びたトレーラーだって美術館前のアート鑑賞に人々が訪れるという「場違い」なところに置かれれば、それで即、アート作品になるかもしれない。ならないかもしれないが。
本来的にトレーラーとしては機能しないくせに使い古されたという印象を残す、というよりも、使い古された証拠のような錆があることが、またこれも、常識を覆すことで、おもわず笑ってしまうようなウィットを感じる人もいるだろうし、その謎かけに悩んでしまう場合もありそうだ。
ところでさっきR天通販で、フェンスを検索したら、売れ筋上位の20品目だかのうち2つがゴシック調だった。
さて、こんな風に私が感じた肯定的な感想の理由をだらだらと分析していっても、きっと答えが見つかるとは思えない。そんな気がしてきた。
横浜トリエンナーレの共通テーマにはブラッドベリの華氏]51の、そのタイトルが引用されているが、この低床トレーラーは、そのブラッドベリの「何かが道をやって来る」の読後感ような“感じ”もあった。ある朝、どこか異世界から、不意に錆びたトレーラーが、忽然と現れている。それはなんだかとっても魅力的なのだが、その実は、花の蜜のように、何かを捕まえる策略を持っている。