痕跡と物語

 昨日のブログで無くなって行くものが惜しい、でも新しく置き換わったものにも親しむ意欲が大事だよね、ということを、もっとだらだらと書きました。なんだ、一行で書けるのか・・・

 写真はどこで撮ったものか・・・一年くらいまえの写真から、また拾い出しています。これは使い古された痕跡がたくさん写っている写真です。白壁のひびや汚れ、ドアのへこみ、もっとも一般的でありふれていたドアノブ、錆びが二本の線をドアに遺している汚れている赤いポスト、などなど。消えてなくなっていくものは、たいていはずっと使われていて、そこに痕跡や記憶が住み着くから、余計に惜しくなる。新品ではないことに物語があり、その物語を知っている人が余計に愛しているから、惜しむ。

 だけど自分が家でも家具でも本でも文房具でも、なにかをはじめて手にして使い始めるときは、まぁ私は中古カメラや中古レンズはときどき買うし、本やCDもアマゾンの安価な中古品から選ぶけれど、それでもやっぱりはじめて手にして使いはじめるときは新品の方が気持ちがいいし、晴れやかになる。物でも街でも時代でも、一緒にリアルタイムで属しながら、自分自身がそれになんらか影響を受け、それを使い続け、そこに生まれた親密さに愛情が生まれるってことだろう。昨日書いていたことと同じか・・・

 そういうのがいつのまにか一般化して、別にこのドアのある家は私にとっては通りすがりだけれど、すなわち誰か他人が使い続けた、誰か他人の物語に属していて、わたしには無関係なドアや家だけれど、それでも自分自身に置換して見えるから、結局はこの痕跡を見ただけで惹かれるってことなのかな・・・

 以前もこのブログに書いたけれど、高校時代の写真部仲間のあいだでは、あるいは、その後の写真仲間のあいだでも、新品で買った一眼レフカメラが使い込まれて、角部分の塗装が剥がれて下地の真鍮が見えてきたり、ちょっとした小さな凹みが出来ると、それが「愛機」であり、自分が使い込んだ証拠として誇らしく思えるような気分があった。ジーンズを使い続けて色が落ちてくのもそんな感じだった。あえて乱暴に使うわけでもなく、丁寧に使い込んでいてもそうなるのがかっこいい。ヤマハ発動機のSRX4/6って単気筒のSRとは違うバイクは排気管が焼けて色が変わるのを売りのひとつにしていて、当時はそういうのも面白いなあ・・・とポジティブな感想を持ったものでした。

 だけど写真には撮っても、じゃあ今からここに住みたいかと聞かれたらそんなわけもなく、結局は勝手な話ですね。ドアやらなにやらが使い込まれて痕跡を残してそれとともに被写体としての「味」が出て来るなら、人間も年を取って味が増すと良い。人間味ってやつ。でも具合よくそうなる人もいれば、ただの世を憂う自分勝手で小うるさい頑固爺になる人もいるんだろうな。

 誰かを慮ったり思いやったり、気を配り優しくしたり・・・自分勝手がつきまとうとほんと難しい。