悲しみに挑む


夜になり高速艇で高松に移動した日、12月4日、高松の港から琴電高松築港駅まで寒風の中を歩いた。実際、この日あたりから四国は寒波に覆われ、この翌日には香川県から愛媛県にかけての山沿いは雪になり交通が乱れることになる。
もう10年近く前に四十代前半で幼子を残して友人のTK君が亡くなった。彼はモノクロフイルムを入れたライカを携帯していて、どこかに行ってふと目に止まったところに向けて、ときどきシャッターを切っていた。
落語家の小三治師匠を追ったテレビ番組をぼんやりと見ていたら、咄家が聴衆を笑わそうなどと欲を持ってしまったらダメだ、と言っていた。
しかし笑ってもらうのが商売だから、笑わせたいと言う欲が出る、そこが難しい。笑わせようと言う気持ちが表にはないのに、日々の鍛練や人としての在り方、そこに咄家としての技が相まって、結果としてお客さんが笑ってくださる、それならばいい。とまで言っていたかどうか?そんな気もするが、これは勝手な付けたし。私の解釈も加えると、そんなことを師匠は言っていた。
亡くなったTK君の写真は、そんな風に見えた。飄々と街を歩き、いい写真を撮ろうとはちっとも思ってない。違う何かの価値観でふっとカメラを持ち上げて、そして撮った、そんな感じだった。そうして出来上がった写真が私はとても好きだった。
根拠もはっきりしない憶測だが、TK君の写真は、最初に長い入院をしたあとあたりから、変わっていった。
そのTK君が高松築港駅で撮った写真のことが、まさにその高松築港駅に着いたときに、思い出された。彼の写真は改札のあたりからホームの方をとらえていて、そこには何人かの通行人が写っていたと思うが正確には覚えていない。豆の菓子の看板が写っていたように覚えている。
その場所はTK君の写真よりずっと狭かった。彼はワイドなレンズで撮ったのかもしれない。駅舎や改札機も建て替えられたり自動改札機が設置されたりでずいぶんと変わったに違いない。
それから、琴電で瓦町へ行き、予約しておいたホテルにチェックインする。何かを食べるために外に出る。頭のなかの表面ににずっとTK君の写真が浮かんでいる。ホテルの前の片側二車線の大きな通りを東へ数十メートル行くと、琴電が通りを横切っている。踏切の閉まる懐かしい音。光の箱となった電車が走っていく。走り去る。踏み切りが上がり、踏切の音が消え、トラックやタクシーのエンジン音がアイドリングから大きくなり、私は今とおりすぎたばかりの電車をまた眺めていたい。それでも、次の電車を待つことなどせずに、背中を丸めて歩き出す。ニット帽に耳が完全に隠れるように、ギュッと下に引っ張った。
TK君の、高松築港以外の写真も思い出してみる。たくさん、彼が撮った写真を思い出せる筈なのに、なのに数枚しか浮かばない。具体的な画像は浮かばないが、その写真の持っている感じはよく思い出せる。
なんとか具体的な画像を思い出そうとすると、TK君の撮った写真ではなく植田正治の学生服を着た男子中学生か笑いながらキャッチボールをしている写真が浮かんで来てしまった。なにか似ているところがあるのか。自分の頭の中なのか、心の中なのかわからないが、とにかく自分の中でTK君の撮った写真がスルッと植田正治の有名な写真に置き換わっている。
どんどんと繁華街から離れる方向に向かっている。もう夜も遅いから店じまいしてシャッターを下ろした小鳥の店があった。ジュウシマツの絵が、看板に描かれている。
TK君が亡くなった、I君は気持ちの扱いが上手く行かなくなった、Tさんは五十才を前にしてご主人を亡くした。あの頃、20年位前に、よく集まっては一緒に飲んだり食べたりしていた連中の最近はと言えば、あんまりじゃないか。
ポツンとその建物だけから光が漏れている、他の店や事務所はみんな閉まっている、行き着いた洋食屋。頼んだ店の名を冠した定食はキャベツの千切りも山盛りで、大きな海老フライと鳥のからあげ二個に、メンチカツまで付いていて、まるでもう若い頃の消化力などない上に腸炎から復帰したばかりの私を嘲笑うように出てきた。全く持ってどうでもいい、意味のない気持ちが、これを全部平らげることが起死回生のようになって、漠然とした悲しみを、それも大それたことに彼等の悲しみをもだ、吹き飛ばすきっかけになるんじゃないか、負けるもんか、全部平らげるぞ、なんて言う冷静に考えればちゃんちゃらおかしな気持ちが沸いてくる。