リトアニアへの旅の追憶


 四谷三丁目にあるギャラリー・ルーニィで元須田塾仲間の四名の方々がグループ展「宵またぎ」を今日まで開催中なので見に行くことにして、せっかく都内まで出ていくのだから他にもどこかに立ち寄ろうと思う。見たいと思ったまま見ていない映画「白夜のタンゴ」に行こうか、と思いつつも他の映画を調べていたらイメージフォーラムジョナス・メカスの「リトアニアへの旅の追憶」を上映中だと知り、まずその映画を見に行った。
 リトアニアへの旅に記録されたとある一日のことを、自身のナレーションでメカスは「記憶だけで出来ている現実だった」(もちろんもとは英語で、これは中沢新一の訳した字幕なのだが)と言っていた。
 イメージ・フォーラムのHPに掲載されているメカス自身による解説を転記する。
『この映画は3つの部分から構成されている。まず第一の部分は、私がアメリカにやって来てからの数年、1950〜53年の間に、私の最初のボレックスによって撮られたフィルム群から成っている。そこでは、私の弟アドルファスや、そのころ私達がどんな様子であったかを見ることができる。ブルックリンの様々な移民の混ざりあいや、ピクニック、ダンス、歌、ウィリアムズバーグのストリートなどを。
第二の部分は、1971年に、リトアニアで撮られた。ほとんどのフィルム群は、私が生まれた町であるセミニシュケイを映しだしている。そこでは、古い家や、1887年生まれの私の母や、私たちの訪問を祝う私の兄弟たるや、なじみの場所、畑仕事や、他のさして重要ではないこまごまとしたことや、思い出などを、見ることになる。ここでは、リトアニアの現状などというものは見ることはできない。つまり、27年の空白の後、自分の国に戻って来た「亡命した人間」の思い出が見られるだけなのである。
第三の部分はハンブルクの郊外、エルンストホルンへの訪問から始まる。私たちは、戦争の間l年間、そこの強制労働収容所で過ごしたのだった。その挿入部分の後、われわれは私たちの最良の友人たちの一部、ペーター・クーベルカ、ヘルマン・ニッチ、アネット・マイケルソン、ケン・ジェイコブスと共に、ウィーンにいる。そこでは、クレムスミュンスター修道院やスタンドルフのニッチの城や、ヴィトゲンシュタインの家などをも見ることができる。そしてこのフィルムは、1971年8月のウィーンの野菜市場の火事で終わることになる。  ──ジョナス・メカス』
 映画の主たる部分は、リトアニアへの旅で撮られた、母や親せきが久々に集まって昔のことを思い出しながら住んでいた家や学校などを訪ねて回り、ナレーションにより鑑賞者にはメカスの極私的な人生を知っていく、という第二章であり、そこに多くの時間が割かれている。
 しかし、第一章と第三章も重要な役割を果たしている。とくに第三章の、第二章よりはよほど散漫で、第二章からさらにまた私的な視点が増えていてより断片的になっているようでいて、大戦中の捕虜収容や脱獄というメカスの若い時代にくぐってきた時代の中の悲しみということとをすでに第一章と第二章で知っている我々がこの第三章を見ていると、最後の火事の場面で(同時にかぶさるその原因を推測するナレーションも相まって)ぷつりと終わるこの映画の全体の構成が、即興的な部分と緻密な構成の部分が絶妙に混じりあった結果、新しい目を開かせるような力を持っていることに驚いてしまうのだった。

 写真は新宿の思い出横丁にて。