街の柄

少し前のこのブログに書いたが、よく出張で行く都内某乗り換え駅近くのモスバーガーで、モーニングセットメニューを朝食にしながら、カウンター席で街を眺めていると、そこから見渡せる範囲には私のよく行く店はないし、いや、よく行くどころかこのモスバーガー以外に入ったことのある店は一軒も見えないのだが、それなのに「街の柄」なんて言う、勝手に作ったような言葉だけど、そんなことを考えた。ここで言う柄とは、Web辞書によるところの『そのものの品位・性質の意を表す。「土地―がうかがわれる」「家―」「作―」』で、しかも客観的なことではなく、主観的なところだ。私がとらえたこの街、と言ったところだ。
柄なんて言葉が出てきたのは、高田渡の歌で知られる詩人の山之口獏の「生活の柄」が浮かんだからだろう。
ひとつの街があって、その街は物理的と言うのか、誰が来てもその日その時間には同じようにあって、だけれども誰か一人にとってのその街のどこにどういう用事があって、どこの誰と接したか、とか、その街にどういう感情を持ったかは、千差万別で、即ち一人一人それぞれのその街の在りようがある。そんなことを思ったときに「街の柄」なんて言葉が出てきた。
いや、実は「柄」よりもっと感じたことを言い当てた言葉があったはずなのだが忘れてしまったのだ。
ところで、ここからはやや脱線なのだが、街に、あるいは誰かの家族、会社の課や部、町や市、都府県、国、なんて言う単位があって、そこに属する人でもいし、空気って言うか雰囲気のようなことでもいいけれど、最初の、昔の80年代風の言い方をすれば「接近遭遇」から得た印象が、それ全体に拡大して解釈してしまうことってよくある。例えばAと言う市に初めて行って、最初に駅前に降り立ったときに感じた印象、それは天候や季節やその日の自分の状態や、そんなことによりたまたまそのときに感じた印象でいくらでも変わりうる、にもかかわらず、A市は素敵だとか嫌いだとか、たかだか一瞬の駅前の印象を全体に広げて解釈してしまったり。B市で初めて会った人の感じが悪いと、B市の人は全員が感じが悪いと思ったりしてしまう。・・・なんてことはないですかね?
ただの脱線。
そこにとある街があるけれど、その街のどことどういう風に付き合うのか、う~ん、付き合うと言うのもちょっと違うなあ。その街に住むとしたら、その街のどこをどう使って暮らしのパターンを築くか。その街が通りすぎる街だとしたら、その街をどう使いながら通りすぎるか。そう言うのは個人個人にとっての他にはない街としての在り方で、その人だけの他にはない街なのだ。そう言うのを「(その人だけの)街の柄」と、強引にそう言うとする。
なんてね、ここまでなんだか随分と大それたことを書いてきたが、モスバーガーのカウンター席で街を眺めながら感じていたのはそういう風にその人がその街との間で築いた「街の柄」が、街の方が変わることで否応なく傷付くと言うことだった。この路地をこう行くと、次の角の右側にトンカツ屋があって、日曜日にはその店でトンカツよりも気に入っているメンチカツを食べる。それからもっと駅の方に歩くと商店街はアーケード街になり、晴れた日には黄色と青のステンドグラスを模したアーケード天井の色の付いたアクリルを通過した日差しがタンクトップ姿の若い主婦の腕に淡い模様に揺れている。アーケードのいつも混んでいる八百屋と新刊本屋のあいだにはよく見極めないと見落としてしまう、目立たない喫茶店があって、その店はポルトガルのとある港町の名前を店名にしている。初老の店主の淹れるコーヒーは酸味が強くて、あまり好きではないけれども、店内のテーブルや椅子と同様にそれが何十年も引き継がれた味だと思うと、敬意を評したくなる。
とかなんとか。だけどこの例に挙げた人は八百屋では買い物をしないから、この街のその八百屋のことはその人の「街の柄」にはない。柄の構成に八百屋は寄与しない。
ところが都市計画によってこのアーケード街はまとめて全部どこかへ立ち退かなくてはならないことになったりする。あるいはトンカツ屋の主人が年をとり、ボチボチ引け時になった、と、店を畳む。喫茶店も同じだ。あるいは代替わりに合わせて最新鋭のマシンを持った立ち飲みエスプレッソバーになるかもしれない。
こうなるとその街と、アーケードの色アクリルとトンカツ屋のメンチカツと喫茶店の酸っぱいコーヒーで日曜日の過ごし方の関係を構築していた誰かは大いに戸惑うだろう。
そう言うときに、一度傷の付いたその人にとっての「街の柄」を新たにまた再生出来るか。都市計画により新しい街作りを推し進める側の人はこんな一人一人の、過去から今の間にそれぞれが築いた街の柄のことなんか考えない。机上で便利や快適を一般的尺度で当てはめて、ゼネコンとの兼ね合いも発注原理にあるのかどうかは知らないが、何かを変えずにはいられない。変えないと仕事をしてないように思われてしまう。
だいたいが快適はまだしも、いや、快適だって過去や記憶に支えられたら数値だけが快適の科学的傾向がそれを示していても誰にでも快適って訳じゃないのだが、特に便利と言うのは気にくわない方便のように思えて仕方のないときがあるものだ。便利の結果は何を目指しているのか?便利の結果、人は幸せになっているのか?便利と称して、経済活動を回して標準を変えているだけという事例もたくさんありそうだ。
そんなグチはさておきその人の「街の柄」は否応なく変えざるを得ない。その否応なくのあとに、本当は前の方が良かったと言うような気持ちか、どれだけ澱のように残ってしまうか、それは変えざるを得ない得なかった新しい柄に馴染めるか、喜んで受け入れられるかってことで、しゃぁないから、新しい店を冒険し開拓するのも億劫なので、メンチカツも酸っぱいコーヒーもやめて、全部コンビニで済ませようとなるとかなり追い詰められる。
そんなことを考えていた。

♪懐かしい人や街を訪ねて、汽車を降りてみても、目に写るものは時の流れだけ、心がくだけていく♪と歌われた曲があったが、これは再訪の期待が裏切られたって歌詞。それよりもそこと日々の関係を構築しているのに強制的に「街の柄」を変えざるを得ない、それって実は当たり前に起きている。その変化があってもすぐに新しい柄を作れるかどうかが、なんだか若さの尺度みたいなことかもしれない。
あれ、なんだか最後は軽薄に結論めいたところに纏めたな。
写真は川崎駅に程近い国道沿いのボクシングジムの窓に貼られたタイソンの写真。カラー写真だと少し暮れかかった落ち着いたブルーの色調で、それはそれでなかなかな良いと思うのだが、ちょうど「森山大道の言葉」なんて本を読んでいたこともあって、モノクロ+ノイズにしてみました。このジムが例えばどこかに移転するとかで無くなっても私の「街の柄」には何の影響もないだろうが、もちろん、すごく影響する人もいる。