寒い朝に


 昨日の雪は今朝になると凍結していた。まだ日が昇る前に家を出て、すぐ近くの駐車場を突っ切って歩いていたら、目に見えない私の歩いているまさにその場所がスケートリンクのように一面に凍っている。転びそうにもなった。危機一髪だった。

  ここのところこのブログには、昔のこと、思い出話ばかり書いている。写真に関して言えば、二年か三年か前に須田塾が終わって以降、定期的に自分の写真を見てもらったり、誰かの写真を見せてもらったり、と言う機会が少なくなって、そう言う刺激から思ったことを書くようなこともほとんどなくなってしまった。ニセアカシア同人ももここのところ集まっていないし。そこからまた別の新たな何かに「乗り出す」のに、自覚はないのだが、考えてみれば乗り出すためのエネルギーみたいなことが足りないのだろう。めんどくさい、とでも表現されるのか。たとえば新しいワークショップを見つけてみようとか、久々に写真を展示してみようかとか、思わないのである。
では、少なくともここには、思い出話ばかりじゃなくて何か別のことを書こうと気張ってみようか。朝、駐車場に残った一面の雪が凍結してスケートリンクのようになっていて滑って転びそうになった。ここまでが本当のことだ。そこから妄想が広がるだろうか?

・・・転びそうになってしゃがみこみ、再び立ち上がろうとしたときに視界の片隅に私と同じような黒いステンカラーのコートを着た同年輩の中年男がちらりと見える。両の手を後ろに回して腰の辺り、ズボンのベルトより少しだけ低い高さで組んでいて、その組合わさった両の手をのどれかの指に引っかけるように薄くぺたんこの、コート同様に真っ黒い書類鞄を持っている。見ていると男は、凍った駐車場の上を、ビジネスシューズにもかかわらずスケート靴を履いているかのようにすいすいと滑っている。
駐車場の北側と西側には道幅五メートルくらいの住宅地を縦横に区切っている生活道路があり、一方、南と東は二階建てのアパートが何軒か囲んでいる。
二度と滑らないように、気を付けながら立ち上がるのと同時に東側のアパートの二階、廊下に面して三軒並んだ真ん中のドアがあいて、太った男が出てくる。私や、すいすいと駐車場を滑っている男と全く同じように黒ずくめの格好だ。太った男はショルダーバッグ、やはり黒いのだか、そのバッグを右の肩に提げている。紐が長すぎる。バッグは男の右の太股の裏を、歩く度にヒタヒタと叩いている。階段をどすどす音を立てて降りた太った男は、まるでスケートリンクで遊ぶかのように凍った駐車場を行ったり来たりしている男と、それを立ち尽くして見ている私を、駐車場を囲む縁石の縁に立ち止まって順繰りに見てから、右肩のショルダーバッグを外し、それを被るようにけさ懸けに変えた。そして思いの外軽々と駐車場に降り立つともう一人の、先に滑っている男よりより一層速く、まるでスピードスケートの選手のようにその凍ったエリアを周回し始めた。
日の出まではまだ45分もある。空は僅かに紺色を帯び始めた。細い月と明けの明星が、シルエットになった東側のアパートの屋根とアンテナと、その上空を横切る電線の向こうに、輝いている。
・・・なんて感じでもう一人か二人、通勤のためにアパートから出てきた一様に真っ黒な格好をしたサラリーマンが加わる。彼等は皆が無口で黙々と、だけれども真っ黒い姿のサラリーマンであることの連帯意識と、根拠もなく芽生えた誇りのようなものを胸に抱いて、五分かそこらの短い時間、そのにわかスケートリンクで遊んだ。そしてそのうちの一人が、始発のバスの来る時刻、六時十五分が迫っていることに気が付いた。男たちはやはり互いに声を掛けあうことも話すこともないまま、凍った駐車場エリアを出て、北の生活道路を渡り、またアパート群のわきを抜けて、先にあるバス通りのバス停に並んだのだった。全員が毎日毎日、同じバスに乗るメンバーだった。なんとなく誰も誰にも話しかけないでいるうちに、話すより先に親しくなった感じが全員に起きた。なので話さないことが不文律の仲間のようになっているのだった。今朝も誰も話さない。やがて小さな市営バスがやってくる。話さずともすでに決まっている自分の席にめいめいが座った。いつもの通りなのだった。

 いや、こんな何も起きないおっさんたちの話を妄想するのではなくて、転んだ私のところに若くきれいな女性が滑るようにやってくる、なんて方がよりあるべき妄想だろうか?でもそんなことは妄想できないな。もう。