KYOTOGRAPHIEで京都へ 食べたもの編

22日の金曜日に都内で仕事が終わってから、品川駅に行き、東海道新幹線に乗って京都へ行った。京都駅着が20時半頃になった。
今年で四回目だろうか、KYOTOGRAPIE京都国際写真祭が23日からはじまる。それに合わせて、写真同人ニセアカシアの仲間のHさんと、23日と24日に一緒に写真展を見て回る計画で、さらに23日の夜には、同じニセアカシアのKH嬢と彼女のご主人と一緒に、かの有名な(?)居酒屋「神馬」に行こうと言う約束になっていて、KHさんが予約を入れて下さっている。
ならば土曜の朝、早い時刻の新幹線で京都に行けばよいわけなのだが、金曜日の夜のうちに京都へ行き、どこか、遅くまでやっている店でなにやら薄いアルコールか(わざわざ薄いと書くのは言うのはもちろん私がアルコールにとても弱いせいなのだ)、あるいは珈琲などを飲みながら、一人で読書をしたりぼんやりしたりする時間を過ごしたいからなのだった。それが、気障な言い方をすれば、旅本番へのプレリュードになれば、と期待している・・・何て言うのは対外的な説明としてすんなりと納得できそうな言い訳のような感じ・・・ほんとうはこの深夜の読書が楽しみの相当な上位にあるのだった。
それにしても京都にホテルを抑えるのは難しい。ふた月かもっと前に、この旅行のためにビジネスホテルを当たったがどこも満室か、もしくはこちらとしては一泊せいぜい8000円MAXとしたいところなのに、そう言うところはなかなか見当たらず、空いている平日であればこれより遥かに安価に泊まれる筈のホテルがその倍から三倍近い値段を付けて予約を取ろうとしていたりで、なかなか予約が取れなかった。それでも焦らずにマメにネットで予約状況をチェックしていると、あるときに不意にキャンセルが出るのだろう、空き室に運良く当たることがあるのだ。今回も一週間くらいのあいだ、ときどき思い付いたようにいくつかのホテルの予約サイトや、いくつかの旅行会社の予約サイトをのぞいていたら、あるときにスーパーホテル烏丸五条に「二連泊禁煙セミダブルベッド室シングル使い」何て言う内容のプランが、上記の希望価格より安価に出てきたので、ラッキーとばかり予約を入れておいたのだった。
ホテルの価格は、早割なんてのも有るのだろうが、総じて、閉店間際になると商品を売り切ろうと割引をはじめるデパートや駅ビルやスーパーの食品売り場のような感じで、ギリギリまで価格を据え置いて、最後の最後に満室にならないときにぐぐっと値引きする、と言うのが普通なのかもしれない。しかし、旅行者の方は、ホテルだけではなく、飛行機や鉄道の指定席券も買いたいし、レンタカーも予約しておきたい。そうなるとホテルの予約も早々に確保しておかないとヤバいって気分になるものだ。そこが駆け引きな訳だ。特にAホテルチェーンなんかはその価格設定の幅が甚だしくて、足元を見られてる感がして、いけ好かない。その点、スーパーホテルチェーンはそう言う見え透いたような作戦もないようで、なんとなくの気分としては今のところ好感が持てている。
スーパーホテル烏丸五条の、烏丸通りに面したすぐ隣や、一つ上がった路地を烏丸通りから左折した直ぐのところに遅くまでやっているスペイン風のカフェバーのような飲食店がある。後者はたしかコンレチェと言う店名だ。昨年の秋に同じスーパーホテル烏丸五条に泊まったときには、夜遅くにこの店に行き、二人組からもっと大勢のグループ客がワイワイガヤガヤ、夜もふけていくにしたがって週末の夜のひとときが大いに盛り上がっていくなかに隠れるようにカウンター席に一人で座り、あのときは、ホットワインをグラスに一杯だけ飲みながら、それで思いの外顔が真っ赤になり恥ずかしかったのだが、短編小説を読み進めながら、トルティーヤを食べた。このblogの昨年の11月あたりの記事に書いてあるかもしれない。あの秋の夜に読んでいたのは、ラープチャルーンサップと言う作家の「観光」と言う短編集だった。
小説、特に短編小説を読み終わり、読後に何らかの気分と言うのかな、それが具体的な物語の中身なんか早々に忘れてしまっても、気分の色合いとして残り、いつまでも漂白されずにいればまぁ、強く印象に残った読書だったことになる。だからといってそれがよい読書のための必要条件て訳ではなくて、なかには読書中は面白くてあとになにも色合いを残さずさっさと忘れられるエンターテイメントこそが最良の読書だ、と言う考えもあってしかるべきだし、ときには、読んでいても訳がわからず読書後にもなにも残らず、すぐにそんな本を読んだことを忘れてしまう、と言うような読書にまでも読書の魅力を感じるような達人もいるのかもしれない。なんて書きはじめると、収拾がつかなくなる。そこで戻ると、昨秋にコンレチェで読んだ、上記の長い名前の作家の短編は、今でもストーリーも、読後に感じた色合いのようなこともよく覚えている。
そして、この読書がその作品の持つ一言で丸めてしまえば、読者であったそのときの私とのあいだに個別に結べる相性の良さを持っていた、あー回りくどい言い方だな、全然「一言で丸めて」ない。でもまぁ、そう言うことです。そうだったことにプラスして、夜遅いスペイン風のバールの片隅で、喧騒のなかに紛れた一人で読んでいたと言ういつもとは違う、すなわち自室や通勤電車で読むのとは違う、読書環境にあったことが合わさって、「よく覚えている読書」となった。別の言い方をすれば印象に残った読書、とでも言うのか。
物語の中身と、読書した環境、自分のそのときの状況、そう言うのがうまく重なる。一試合に十回チャンスがあるうちに一回しか得点にならない、その一点だけを取り上げると、偶然の味方もありながら美しくあるいは泥臭く、または呆気なく、ゴールが決まる。そのうちの美しいゴールが決まるような読書がたまに発生する。
そう言うことが発生する確率が高いことも、金曜の夜のうちに京都に入りたかった理由なのだろう。

上の写真がその結果たどり着いたエレファントファクトリーコーヒーで飲んだNo.7と言う名前の珈琲。読書はまだ全編読み終わっていないケン・リュウの「紙の動物園」から「太平洋横断海底トンネル小史」。ホテルにチェックインしたあとに、カメラを持って出る。近くのコンレチェは満席だったから写真を撮りながらずっと歩いて行ったのだ。途中で財布を持ってくるのを忘れていることに気が付いた。銀行カードもなく、なんとかクレジットカードがあったので、キャッシングする。店に入るまえに気が付いてよかった。金曜の10時過ぎ、エレファント・ファクトリーは空いていた。カウンタ席に二人組と、読書をする一人の若い女性。あとになってどこかで飲んできたらしい若者四人組がやって来て、とてもうるさくなる。潮時と思い引き上げた。

ところで、ご多分に漏れず、撮っても問題の無さそうなときには食べたものを撮ります。あまり品のいい行為ではないかもしれない、と言う後ろめたさが欠片として心のどこかにあって、じっくりとは狙わない。ささっと、プログラムオートで。深度の浅さも深さも、どこにピントが合うかも、詳細に考慮しない。出来上がった写真はたいていイマイチなのだ。まぁ、覚え、のような。
でも今回は写真を何枚か載せてみます。
写真展巡りの途中でたまたま行き当たった町の食堂と言うのかうどん屋さん、京都ではこう言う店を力餅屋と言うのだろうか。のっぺいうどんには生姜がたっぷり。
神馬の「茄子と鰊の炊いたん」。お酒は灘だか伏見だかの何種かをブレンドしたものだとか。
土曜の夜、皆で行ったカフェ・マーブルでは赤ワインをベースとしたカクテル。
日曜の午前、Hさんと久々にお会いしたNさんとは、京大正門で合流。Hさんが買ってきて下さった出町ふたばの柏餅を食べてから、いざ、歩き出します。