ニセアカシアの七号の行方


目標より遅れてまだ未発刊のニセアカシア(私も参加している写真仲間の同人写真集)7号の編集会議を、同人のうちの三人が集まって新宿の古い喫茶店の地階の奥の四人席で行う。さて、閉塞感を打破して、刊行に向けて加速が出来るかな?
その前に、新宿Nikonサロンとコニカミノルタギャラリーで計五つの写真展を見る。
それぞれの写真家にそれぞれの個性のようなものが見えて、それぞれの作品の作り方の違いがあって、もちろん作品制作の原動力となった動機のようなことやそれを戦略的に再構築したコンセプトもそれぞれだ。
その一方で、どの写真展の写真も、既視感にとらわれる。あぁ、この手のこのテイストの感じね。冒頭に掲げられた口上を読み、写真を並び順に四枚か五枚見ると、おおむねのところがわかっちゃう。わかると言うのは、鑑賞者側に出来ている既製カタログに照らしてみて、ほぼほぼ合致するところを見つけることで、安心するってことだろうか。自分のプライドやアイデンティティとか言うらしいことを保てる安心。しかし安心は下手をすると退屈だ。安心の範囲内で、退屈には至らない、ならば嬉しいのだが。上記の「それぞれの個性」が小粒で、安心の中心に収まってしまっていても、そこにあっての輝きがあるといい。
まぁ、こんなのは鑑賞者側が写真まみれになって、中古の鑑賞者になってしまい、すなわち感性が磨耗し鈍化していると余計に良くない。
なんて考えていて、生物の分類学などをWikiってしまった。
例えばヒトは、ドメインと言う分類のレベルで真核生物、次の界で動物界、その下の門では脊椎動物門。さらに哺乳綱、サル目、ヒト科、ヒト属、と来て、その下の種がホモサピエンス(ヒト)となっている。これでやっとヒトまできた。生物学的にはここまでなのかな?我々がよく言う白人とか黄色人種の分類は種をさらに細分したところは何なのかな?亜種って単語を聞くけれどそれなのか?
「人種」と言う単語を同じくWikiで調べたら、
『人種(じんしゅ)とは、現生人類を骨格・皮膚・毛髪などの形質的特徴によって分けた区分である』
と、はじまり、以下膨大な記事が書かれている。個人まで行き着くにはここからさらに細かくかつ多視点からのこんがらがった複雑な分類を経なければならなくて、だけどこうして個人が存在している。
そして個人は、一例として「世界に一つの花」だかなんだか、うさんくさいような、気持ち悪いような、怪しい比喩で存在肯定されている。(もしくはそんな感じに騙されている。いや、そこまで斜に構えなくてもいいか・・・)
Nikonサロンやコニカミノルタで見た写真に、きっと誰かがこころみている写真作品の分類学のようなことを適用すると、どのあたりのレベルで「差異」が見えてくるのか?個人のレベルで差異が有るのは当たり前で、そんなのをもとに世界で一つの花だかなんだか言って自己満足するのも良いわけだが、一つ俯瞰する高さを上げると、これとこれとこれとこれは同じですね、と括られる。それでグループができて、また一つ上げるとこのグループとこのグループは同じですね、となるわけだ。既視感を覚える一括りの範囲として、どういう定義での括りを鑑賞者は直感的に見分けているのだろうか。
ここで私がグループと書いたのが、よく写真の分野として区分けに使われるような、花とか昆虫、天体、鉄道、風景、などと言うような被写体の分類学で考えるとわかりやすいが、そうではなくて。いや、それも含めたなかの横串ではなくて斜めに刺さったような、同時代の流行みたいなことが既視感として臭う、そんな気がする。
俯瞰の高さを上げてもずっと括られずに唯一無二だったり、あるいは括られたなかを分析すると多くのフォロワーに囲まれたカリスマだったりがある。
難しいのは唯一無二やカリスマがすごいんだろうな、と思う一方で、必ずしもいいと思うものがそれとは一致せずに、前述したような既視感にまみれながらも見出だせる個のレベルの小さな差異が良かったりする。
小市民的な好感と、専門的統計上の評価による唯一無二やカリスマは一致しない。
きっと、60年代あたりの社会には、例えば芸術論においても先鋭的でストイックな標榜があって、唯一無二やカリスマを肯定出来ない小市民的な安心を捨てよ!的なムードもあったんじゃないのかな。
今となってはどうでもいい。でもそれはそれで懐かしい。

Nikonサロンとコニカミノルタギャラリーで写真展を開催していた真摯な五人の作家や、ニセアカシアの仲間たちの新作、どのレベルかは知らないけれど、みな私にはよい刺激になって素晴らしい。

写真は新宿での編集会議のあとに三鷹市民ギャラリーで塩谷定好展を見てから、そのあとに入った三鷹の居酒屋で。写っている日本酒は田酒。