それぞれの夕方

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午前日曜美術館を見る。、番組のの後半に、いま開催中の展覧会を紹介する「アートシーン」と言うコーナーがあって、そこで汐留のパナソニック美術館で分離派建築会100年というのを開催中と知ったので、さっそく行ってみる。

自宅から茅ヶ崎駅まで歩く。下の写真はその途中にある市の体育館。市の体育館は市役所の近くにもっと新しい建物があるので、どういう役割分担をしているのか私はわからない。わからないが、この昭和40年代くらいに作られたらしい古い小さい体育館の建物の外観デザインがなんだか好きです。(調べてみたら昭和41年の建物だった。また新しい方の体育館は総合体育館と言うそうです。この古い方の体育館は平成20年に耐震補強工事済と書いてあった)ときどき剣道をやっているらしい声が聞こえてくる。この写真は古いスクリューマウントの35mmのレンズをAPS-Cサイズセンサーのミラーレスカメラに付けて撮っている。銀塩換算焦点距離とかフルサイズ換算焦点距離とか、そういう数字で言えば55mmくらいだ。55mm・・・これまたレトロでいいですね。ずっとフルサイズ換算35mmくらいが自分にとっての標準画角と言う感覚でいる。もうちょっと長くて40mmくらいでもいいかな。だけど最近は(フルサイズ換算)50mmとか55mmになると35mmと違って、少しだけ出てくるカメラ操作の「わずらわしさ」と、ときどき「こんなの撮れちゃった」と感じる偶然の面白さがあって、そういうのが億劫なときと楽しいときとで使い分けてもいい感じがしている。あ、もちろんこの前提はオールドレンズゆえにマニュアルフォーカスであり、絞り優先AE的に取り付けたレンズの絞り値をどうするかは自分で決めるという場合ですよ。絞りによって、古いレンズだから、いろいろと画質がばたつく、とくに開放側は収差があばれてフレアが乗る。被写界深度も変わるし。と言うような写真に現れる違いを自分で選択しなきゃならないと言う前提のもとでのフルサイズ換算50~55mmなのです。そうでなければ最新の自動機能に任せれば「わずらわしさ」などはもうあまりないかもです。かといってここに載せた上の写真や下の写真にそういう苦労の結果の「レンズ効果」みたいなところはなにもないですね。よって撮るときに制約を貸していても写真にその苦労は結実していない・・・のか?

あるとしたら、どこを撮ろうと思ったか、どこでシャッターを押したか、と言う撮る側の気分の違いだなぁ。もしかしたら撮るときのそういう「マニュアル操作」の煩わしさが、機械を自分で操作しているという「操縦しているぞ感」のようなことになり、それが撮るエネルギーになっていて、全自動のカメラを持っているときは簡単に撮れるのにそこで立ち止まって撮らなかったそこを、マニュアルゆえに撮ったということになっているのかもしれないけれど、それはパラレルワールドがあって、体調や精神状態やそう言う個のことが同じ自分がこっちと向こうに共にいて、ただ持ってるカメラだけを違えて、この体育館の前を通ったと仮定して、そこを撮ったか撮らないか、と言うようなことで、そういう実験は不可能なので、結果も想像しかできない。

分離派建築会のエネルギーがことが、新しい建築の模索、建築も芸術だという取り組み、既存の明治期に西洋から入ってきた重厚な西洋建築のみを是とすることへの反抗心、ということだとを知ると、この時代には建築分野だけでなくいろいろな表現というところで同様の若々しい試みが発生していたのだろう、と思う。その時代だからできた活動なのか?いつの時代にも過去の時代の方が、新しい挑戦が出来る土壌があったように思えてしまうだけなのか。それだって確証実験のようなことは出来ないからわからない。

いまに至る歴史は、いまのこの国のこの社会のなかの暮らしが、そこそこ幸せというか、こういうものだ、と思えて波風がなく平穏であるならば、その歴史を是として学ぶことに違和感を覚えない。生まれた国の代表チームを自動的に応援するような感じかもしれない。でも実際はどこかで「たられば」の結果が、違う道筋になっていたとして、それで違う歴史を歩んできていても、科学の発展がもたらした道具が定めた暮らしの基準が多かれ少なかれ同じであれば、そっちの方が実は支配的であって、一個人が暮らしから感じる幸せのようなものは歴史の大きな転換と言われたときに起きたことが変わっていたとしても、大して変わらないのではないのかしら。一方でものすごく変わっている場合もあるんだろうから、結局のところ確認が出来ない以上、そういうものだ、と受け入れるしかない。とにかく、歴史の道筋がなにを辿ろうとも、人の尊厳と自由意志の許容範囲は縮小せず、維持拡大される方がいいな。

日曜日のそれぞれの夕方の時間。交差点で偶然行き交うひとたちにもそれぞれの目下の計画があって、剣呑だったりもするだろう。私はダゾンでベルマーレの試合を観戦して、とある街角で立ち止まってですよ、それで岡本と斎藤が点を決めて上位チームに勝利して、それがすごく自分の気分を明るくする。観察するに、赤の他人であるスポーツ選手の出してくれた結果にこれだけこちらの気分が左右決定されていしまっていて、そんなにスポーツに依存していいのか!?と、これは勝って嬉しいときも負けて悔しいときも不思議だなと思う。そして早い夕暮れがやってくる。秋の日はつるべ落としって歌っている小坂忠の歌を思い出した。

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